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「マーケティングしまくっても意味のない世界」を夢見つつ、この新型コロナ時代を生き抜く

新型コロナウィルスが日本でも大流行の兆しがある中でそんなこと夢見てる場合か?って内容とも取れるかもしれないけど、今こそ重要かもしれないことなので書き記そうと思う。

「マーケティング」関連の仕事を使命感を持ってやっている人には耳障りな内容かもしれないけど、マーケティングって「情報セキュリティ」と一緒で本来は人間にとって必要のないものだと思っている。本来は必要のない努力。全く必要じゃないとは思わないけど、実は生産的でも創造的でもないもの。そして、時に価値を台無しにするものだとも思う。

マーケティング至上主義について

WIREDの有料記事だけど、2015年くらいのスタートアップにありがちだった「マーケティング至上主義」が全体としてどのような影響を及ぼしているのかが分かりやすかった記事。

これは記事の中の抜粋。

とはいえ、プロダクトのよし悪しやチームのレベルは重要ではないのだろうか? 「ほとんど関係ない」と、アンドリーセンは言い放っている。大きなマーケットさえあれば、スタッフの半分しか優秀でなかろうと、もしくは半分がダメ人間であろうと、企業にとっては大した問題にならないという。なぜなら「ひとたび軌道に乗せてさえしまえば、それからチームをアップグレードするのは驚くほどたやすい」からだ。アンドリーセンはさらに、「優れたプロダクトである必要すらなく、基本的に機能すればそれでいい」とも言っている。

要は、マーケティングのセンスさえあれば、実態が伴ってなくても成功するという考え方なんだと思う。ただし、実際には確かに、僕も体感的にそういう世の中に向かっているように感じる。これは企業の過剰なマーケティング戦略だけでなく、個人の過剰なブランディング行動にも同様に言えること

「マーケティング競争」がむしろ害悪だと思う理由

こういうことに長年モヤモヤしていて、2018年にはこんなことをつぶやいていた。

マーケティングについて誤解している部分があるにしろ、大枠の考え方は今も変わっていない。

もし「マーケティング力がありさえすれば実態が伴ってなくても成功する」という方向に全体が傾けば、逆説的に「優れたチームとプロダクトがあったとしてもマーケティング力がなければ成功しにくくなる」とも言える。

もう既にそうなってるとも言えるけど、マーケティング競争が激化すると、「見せ方」とか「伝え方」のテクニックにリソースを割くようになってくる。インフルエンサーを起用したり、プロダクトを誇張して見せたり伝えたり、その他の詐欺的な手法など、とても倫理的とは言えない方法でマーケティングを行う企業も出てくる。

一方、そうは出来ない企業は、それまで以上にリソースをつぎ込んでマーケティングを行わざるを得なくなる。素晴らしいチームがあって確実にイノベーションを生めるサービスやプロダクトを生み出せるような企業でも、マーケティング競争に破れてしまえば世に出回ることはないかもしれないし、マーケティングにリソースを費やさざるを得なくなればサービスやプロダクトの完成が遅れてしまう。

これって、本当に僕らの望むことなのだろうか?自分たちが得をするイノベーションだとしても「伝え方」とか「見せ方」とかの条件を付けるのか?持続不可能な今の地球に果たしてそんな余裕はあるのだろうか?

マーケティングは良くて「思い通り」の結果しか得られない

「マーケティング」は、基本的に、自分たちの仮説を元に「思い通りの結果」を目指すものだと思う。ある意味、予定調和を忠実に目指すアプローチ

その仮説を元に目標を決めたりその目標に向かって努力することは当然だけど、実は「思い通り」という結果はベストとは言えない場合が多いと思う。もしそうだとしたら、マーケティングに頼っている限り、イノベーションも起こりにくいのではないだろうか?

2014年に書いたブログ記事で、セレンディピティ(Serendipity)と言う概念について書いたことがある。

これは、そのさらに前に茂木健一郎さんの連続ツイートで目にしてすごく興味が湧いていた「偶有性」に通じるような気がしたのもあって、偶有性についてこの記事ではこんな風に書いていた。

偶有性とは、僕の解釈では、想定外のことが起こる「余地」があることで、それが「脅威」にもなりえるけど、逆に「理想以上」の結果になることもあるというようなこと。

多様性を認めない排他的なグループや思想はこの偶有性の余地がなく、良くて予定調和の結果しか導けない。

また、目的を達成するためだけに行動することは、例え目的が達成されたとしてもそれ以上の結果は望めない。

だけど、その過程で寄り道をしながら新たな気づきを得て方向性を柔軟に変えていける人は、目的達成以上の結果を導きだせる可能性があるということ。

さらに、「偶有性」と「セレンディピティ」の違いと関係性について以下のように分析していた。(間違ってるかもだけど)

「偶有性」はあくまで「現象」や「性質」のことを指すのだと思うけど、「セレンディピティ」はその偶有性をコントロールしてポジティブな効果を得る人間の「能力」なんだと思う。とても素晴らしい能力だと思うし、この能力があれば無駄なことなんてなくなっていくのかもしれない。

このセレンディピティや偶有性の概念に照らし合わせれば、マーケティングに頼り過ぎると、良くて思い通りの結果しか得られないことになるのではないかと思う。

そういう企業ばかりが幅を利かせて、何となくどこにも入り込む余地がなくなり居場所がなくなってしまうような社会に住みたいと思うだろうか?

「個人」の行き過ぎたブランディング行動にも言えること

それは企業のマーケティング戦略だけでなく、個人のブランディング行動にも言えるとずっと思ってた。

それをちょうど今日Baby Tokyoの片平優さんがつぶやいてくれた。

ここでどんな人を対象として言われているのか正確には分からないけど、何となく僕にも同じように感じるところがある。

ツイッターでは長らくの傾向だけど、フォロワーを増やすためには手段を選ばなくなってきている。お金を払ってフォロワーを増やす人もいるし、やたら声がでかい人がいたりクソリプを送りまくったりして迷惑行為を繰り返す人もいるし、自分を誇張して大きく見せたりインフルエンサーを利用してフォロワーを増やす人もいるし、バズらせるための一時的な消費ネタを探したり炎上マーケティングで注目を引こうとしたり、もっと行き過ぎると誹謗中傷したりフェイク情報を流してでもバズらせようとする人もいるかもしれない。

このうち、「誹謗中傷したりフェイク情報を流すこと」以外は多くの場合で合法的に自由が認められることではあるけど、果たしてそれでいいのだろうか?

僕は昔から「伝え方」とか「見せ方」は本質ではない(後述するけど、最近ではAI技術の進歩によってほとんどそれは意味を為さなくなる)と思っていて、しかも「いいね」をもらうためのつぶやきをしたくない。そういうところに自分の時間や労力を割きたくないと思っているので、ツイッターでこのような傾向が続くのであれば、僕のようなアカウントはいくら有用で価値のあるつぶやきをしても表舞台に立つことなく、埋もれたままになるだろう。

そんな中、今年からnoteを書き始めて感じるのは、良い記事にはそれなりに「スキ」が付くということ。そういう実質的な価値がありのまま評価される文化がnoteにはまだあるんだと感じている。ツイッターには残念ながらそう言う文化は失われてしまった気がしている。

根本的には「人間の能力」の限界が問題?

僕が夢見てる世界は、実質的に価値がある人やプロダクトやアイデアが、ある一定以上のマーケティングの努力なしに自動的に検出される世界。この場合、マーケティングをどこまでやろうが自由だけど、マーケティングしまくっても全く意味をなさない

最近のマーケティングはビッグデータから人々の購買行動などを分析して行われていると思うけど、人々の購買行動はやはりウェブサイトのプレビュー数(Googleの検索結果)や、ツイッターなどのフォロワー数などを元にした指標がまだ大きな影響力を持っていると思う。

ここで問題になるのが、これまで書いてきたように、「見せ方」や「伝え方」その他のマーケティングのテクニックさえあれば、実態が伴ってなくてもどうにかなってしまうということ。もっと突き詰めていくと、根本の原因は人間がそれぞれ直接判断するという人間の能力の限界という部分に行き着くと感じている。

SNSなどを含めて、インターネット上には有用な情報ばかりではなく、どうでも良い情報も、中には有害な情報もある。そんな雑音ばかりの中から有用で価値がある情報を選び取るのは至難の業だ。その理由は、主に人間の処理能力の限界と、感情や心理の壁によるものだと思う。

AIが果たせる役割

「マーケティングしまくっても意味のない世界」の実現にAI(人工知能)が活躍できる可能性が、以下の記事でも書いた通り、ある程度、現実的にありえると考えている。

AIが果たせる役割とそれによってどうなるかを妄想してみる。

1.人間の「処理能力の限界」をAIに超えてもらう

この場合の人間の処理能力の限界とは、インターネット上の膨大な情報を読み取って文字通り解釈するための時間と労力、また言語の機械的な解釈能力を含む。

僕たち人間は時間も集中力も言語的な解釈能力にも制限があり、自分で読んで正しく解釈できる情報は恐ろしく限られてしまう。なので、情報を選ばなければならず、その優先順位が人それぞれの判断になってしまう。ある人は興味のあるものしか読まないし、ある人は耳障りの良い情報にしか触れなかったり偏りが出てしまう。

もし、インターネット上の膨大な情報の読み取り処理をAIに代行してもったらどうなるだろうか?この場合、キャッチーなタイトルとかを含めた「見せ方」や「伝え方」を無視した機械的な解釈のみで、それをAIが解析してコンテンツの精度の高さを判断し、個人や企業のアイデンティティをより正確に表現できるようになる。

この時点で、誰もがより広くある程度正しい解釈の情報群から取り入れたい情報を選択できるようになり、声がでかいだけだったり自分を大きく見せようとする人は淘汰され、埋もれていた人材が表舞台に躍り出れるようになる。

2. 人間の「感情や心理の壁」をAIに軽く超えてもらう

情報を判断する十分な時間やリソースがあったとしても正しく解釈や判断が出来ない場合がある。それは、好き嫌いとか偏見とかの人間の「感情や心理の壁」だと思う。そういう公正さを保てない部分で人間は判断を誤ってしまい得ると思う。

例えば、心理的にアレルギーのある分野の情報だと敬遠して読まなかったり、アンチ的な姿勢で情報を自分の都合良く解釈して前後の文脈を一切無視して一部だけ切り取って批判(クソリプ)するとか。

あまり関連あるか分からないけど、職場でスクリプトで自動化して心理的な負担が減ったものがあって、それはeラーニングの未受講者のトラッキングとリマンダーの自動化。未受講者のトラッキングするのはまだいいんだけど、未受講者にリマインダーを送って受講を催促するのは意外と心理的に負担がかかることだった。これが自動化されて気づいたのが、自分の心理的負担が減っただけでなく、メンバーもそれほどストレス感じることなく受講完了してくれて、全体のeラーニングが驚くほど速やかに完了した。

AIは恐らくこういう人間の感情や心理的な壁を軽く超えることに向いていて、AIが全ての情報を機械的に読み取ることが出来たとしたら、それぞれが持っていた好き嫌いとか偏見とかが和らいで、人と人の間のストレスとか対立も少なくなり、もっとリソースを費やすべき課題に集中・協働することができるようになるのではないだろうか。

そんな未来に向けて、今、この新型コロナ時代を乗り切るには?

残念ながら、そんな未来はすぐには訪れない。そして、今、新型コロナウィルスの大流行の兆しがあり、この難局をどうにか乗り切る必要がある。

実はAIに頼らなくても僕ら人間の努力だけで状況を劇的に改善することは可能だ。

1. 雑音をなるべく出さない

インターネット上には有用な情報も多く存在するが、雑音なだけの情報も気が遠くなるほど多い。この場合の人間の処理能力の壁への想像力を働かせて、エンターテイメント的な消費ネタなどで目立ちたいとかバズらせたいという理由で雑音をなるべく出さないようにしよう。

2. 公正さを保つ意識を持つ

自分の個人的な好き嫌いや偏見で不要な対立やストレスを生むのは控えよう。どんなに嫌いだったり気に入らない相手でも、自分の都合の良い解釈をせず、不明な点があれば相手に確認してクリアにした上で議論を進めよう。

それはWHOなどや日本政府や外国の政府に対してもそうだし、都道府県や各自治体、各種団体に対してもそう。

この二点をみんなが実践するだけで、AIに頼らなくてもいろんな部分が円滑に動くようになり、いろんな状況が好転していくようになるはず。もしそれが出来ないなら、逆に状況は悪化し最悪の事態を迎えるかもしれない。。。

かなり長くなってしまったけど、そんな危機感から僕からの提言のような物をまとめてみました。

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