諏訪敦彦監督作品:映画『風の電話』について/斉藤有吾

忘れたい、思い出したくない、放っといてくれ、お前なんかにわかってたまるか、他人事か、このまま風化させてしまってはならない、同じような体験をしても受け止め方は各々違うって、頭ではわかってるのに、私よりも、アナタよりも酷い被害に遭った方々がいる、私なんかが、アナタが傷付いて落ち込んでいる場合ではない、この線から向こうには助けがあり、この線からこちらは自力で頑張りなさい、、、否、誰だって、傷ついていいよ。傷つくのにライセンスなんて要らない、だって、もう傷ついてるだろ?他人と比べなくていいよ。

助けの手を差し出した、、その手がもうボロボロだ、痛い、しかし差し出した手を引っ込める理由が見付からない、、、手を差し出した時は、理由なんてあったのか?相手が自力で成すには困難だけど自分が遣れば簡単に成せる場合だけ助けの手を差し出すのが良いとの勧めもあるようだけど、毎度毎度そんなにスマートに行くわけではないだろう。否、そもそも他人を助けるって、助け切ることなんて可能なのか?

この映画『風の電話』が、そんな風に言っているように感じた。

渡辺真起子氏が朝食を準備しているところに、制服姿のモトーラ世理奈氏が登場する。渡辺真起子氏はインスタントのスープか何かをのみながら「これ濃過ぎない?こんなもん?」旨云いながら食事を始めたのかな、確か。モトーラ世理奈氏は、渡辺真起子氏とは違う飲み物だったのか、同じだったのか、パックの持ち手が垂れたままのインスタントのお茶を飲んでいるが、中々食事に手をつけない、ずっとお茶のマグカップを持ったままたまちびちび飲む。もしかしたら食べたのかもしれないが、ここでは、食べるシーンが無い。映画全体を観た後なら、あの時は食べなかったのかもしれないという気もする。そんな、不思議な印象の朝食シーンから始まる映画。

渡辺真起子氏が「進路相談の日程は決まった?あら、未だなのかしらね?」旨問いかけ、モトーラ世理奈氏も「未だ」と答える。中々食事に手をつけないのを急かされることもなく、比較的穏やかな朝食シーンだ。この段階では、二人は親子なのだと思った。

渡辺真起子氏に抱きしめられてから、玄関の扉を開けて登校するモトーラ世理奈氏。カメラは、見送る者からの、渡辺真起子氏からの目線を思わせる。

学校でのシーンは無く、直ぐに帰宅のシーンに繋がっていたように記憶する。学校へ向かう道中のシーンも無く?船に乗るシーン等は登校途中のシーンだったか?記憶が曖昧だが、ちゃんと学校へは行き、帰宅する。時間の経過がどのように表されていたか思い出せないが、直ぐに帰宅して、見送るシーンと同じ画角で玄関から入る。すると、渡辺真起子氏が倒れている。倒れているのを発見したモトーラ世理奈氏は「弘子さん?弘子さん?」と首や手首に触れながら渡辺真起子氏の名を呼ぶ、ここでは、母親をファーストネームで呼ぶスタイルの親子かしら?等とも思いながら、つまり、親子ではない関係(?)だと確信させる程のよそよそしさもなかったのだ。

病室に横たわる渡辺真起子氏のシーンでは、真っ先に目を凝らして、助かったのかどうか、胸の上下運動を見て呼吸があるのを確認して安心した、その時の自分のを気持ちを覚えている。助かったのか助からなかったのか、瞬時に分かるような説明的な演出はないから、観ているこちらが心配して確かめるような心の運動があった。極端に抽象化して、どうにでも解釈可能にした不親切さがあるタイプの作品でもなく、時間差で、後からちゃんと説明もあるので、私は映画には疎いが、初めて体験する塩梅の映画だ、面白い。

船に乗るシーンはこの後だったかしら?モトーラ世利理奈氏は移動して、開発の為か、木々の剥げた山の中を彷徨い、水溜まりが多いが避けるでもなく、靴は濡れてしまっただろう。「何で、ぜんぶ奪うの、何で、ぜんぶ奪うの」と泣き叫ぶ、転んだ、、暫くして、そのまま力尽きたように仰向けに倒れてる、動かない。

諏訪監督曰く、実際には、ハルのように抱き締めて貰わないと学校に行けなかったり、泣き叫んだりする人は少ないのかもしれない、みんな普通に笑って学校行って生活しているのかもしれない、だから、ハルは、おとぎ話の登場人物みたいな存在かもしれない。しかしあの泣き叫ぶシーンでは、ある種のトランス状態に持っていって、ハルの深層意識にあったものが放出された、と。

モトーラ世理奈氏は、その想像力に寄って、ハルをある種の変性意識状態に持っていって、この日まで堪えて溜め込んできたものを放出させた、否、ハル自身が聞いてあげられなかったハルの声を聞く為の耳を開いた、こんなに大きな声(叫び)だったのに、今まで聞いてあげられなかった、聞こえなかった。しかしこの叫びは、ハル独りでは受け止め切れない。ハルは、娘であり姉であり友であったのが、ぜんぶ奪われて、この数年は唯一の頼りだった叔母が倒れて、叔母からの「応答」も無い状態では、完全に孤立してしまい、何をする理由もなくなり、気力を失ってしまう、きっと。

そんな叫びなんて何処にも無いって?無いなら無いに越したことはない。最初、ハルの「何で、ぜんぶ奪うの、何で、ぜんぶ奪うの」という台詞を言葉だけにして切り取ると、余りに説明的過ぎやしないか?と違和感を感じた。しかし、ハルは泣き叫んでいるのが嘘だとは感じなかったので、ヘンテコな印象だったが、直ぐに分かった。

私はハルではない。ハルの声を、誰かの叫びを、五十音で分離して、それを漢字変換したくらいの解像度で解釈して図るのか?そんなんじゃ図れない。少なくとも私に取っての、この映画の醍醐味は、別のところにある。

後のシーンで分かるのだが、これは、土砂崩れで剥げた山肌のある場所だった。

どれくらいの時間が経ったか、暫くして、仰向けに寝たまま動かないところに車が通りかかる。引きのショットで、車から降りてきた男は「おい、大丈夫か?」旨、大きな声で呼び掛ける。聴いたことのある声だとは思ったが、カメラが近寄るまでは、この男が三浦友和氏だとは気づかなかった。そのことも、このシーンに緊張感を与えていたかもしれない。露骨な説明的演出ではないから、観ている最中には気がつかなかったが、しかし映画全体を見終わって思い返してみた時に、この映画での三浦友和氏の演じる役がとんな人物なのか、この段階では未だ何も知り得ない、たまたま通りかかった見知らぬ男であることを確認させ、印象付けたかもしれない。

三浦友和氏が「どこに住んでるんだ、送るから」と訊くが、答えない、一言も喋らないモトーラ世理奈氏を車に乗せる。仕方なく、「これ、俺ん家だから、母親しか居ないから、」と上がらせる。嫁さんも子供連れて出ていってしまったとのことだ。三浦友和氏が料理を始め「あんなところで寝っ転がって、動かないから、死んでるのかと思ったぞ」旨話しかけるが、モトーラ世理奈氏は答えない。暫くすると、ゆっくりとした足取りで別府康子氏が登場し、「これ、俺のお袋」と三浦友和氏が紹介する。椅子に座った別府康子氏はモトーラ世理奈氏を見て、家族の名前らしき女性の名を呼ぶ、懐かしがるような、喜んでいる雰囲気だ。別府康子氏はモトーラ世理奈氏の手を握り大事そうに放さない。三浦友和氏が「◯◯子(名前を思い出せない、主人公のハル以外の全ての登場人物の役名を思い出せない、不思議なくらいに、名も無き通りすがりの仲間?感としての愛着は強く残ったのに。。)って俺の妹、お袋は認知症が進んじまって、飯食べる時になったら放すと思うから、ごめんな」旨云うと、モトーラ世理奈氏は「いいんです」と答える。「何だ、喋れるのか」と三浦友和氏。夕食が出来あがったか、食べ始めたかのタイミングで、「あんた、どちらさんで?」旨を別府康子氏が訊く、所謂正気に戻ったのだ。「ハルと申します」と自己紹介するモトーラ世理奈氏。暫くすると、別府康子氏は戦争の話を始める、「広島の出身で、終戦直後(兄弟だったか?思い出せないが、)大切な人の骨壺を受け取った時に、骨が残ってなくて、学生服のボタンだけが入っていて、何で骨が入っていないんだ、とがっかりしてしまった」旨を語るのだが、実は、これは、別府康子氏の実体験で、この役のオーディションの時に、この体験の話をしてくれて、その話をそのまま映画の中で話して下さいと諏訪監督がリクエストしたのだそうだ。

別府康子氏は、骨壺を受け取り「何で骨が無いんだ」と思ってしまった自分自身に傷付いてしまい、それが役者になることの切っ掛けになったそうだ。

別府康子氏の話を新味に成って聞いていたモトーラ世理奈氏に「食えよ、ちゃんと食えよ」と三浦友和氏が気にかける。

諏訪監督曰く、三浦友和氏は、弱った時は「食え、大丈夫、死ぬな」というのが大事だと考えていて、それが、そのままこの映画で三浦友和氏の演じる役に反映されているのだそうだ。

モトーラ世理奈氏は自分が何処から来たのかを告げた、三浦友和氏「オオツチ、何処だ?そこに家族もいるんだな?」モトーラ世理奈氏「いない、叔母さんと住んでた」三浦友和氏「大槌って、岩手のか?、、、あそこも被害が酷かったな、、」と三浦友和氏は、余計なことまでは言わない、過不足無い感じと云ってしまうと乱暴だが、二人の出会いのシーンからこのシーンまで、徐々に知れる三浦友和氏の演じる役の人柄とモトーラ世理奈氏の演じる役との関係の中で、導き出された場面としての言葉、演技なのだろう、終始この映画はその様に作られたのだろうか。

夕食を終えて、車で電車の駅まで送る道中(食事中だったかな?)、近くで酷い土砂崩れがあった話をした流れから「死ぬなよ、お前、最初見た時死にそうな目してたぞ、俺の妹な、自殺したんだ、死ぬ前の妹と同じ目してたぞ、死ぬなよ」と三浦友和氏。

ホームで電車を待つシーンだが、電車が、中々来ない。田舎だから?否、映画の1シーンとして不自然な程に、中々電車が来ないのだ。学校へ行く時には、行って帰ってくるシーンのみで、思いっきり省略されているので、尚更、長く感じるのかもしれない。ようやく電車が到着した、しかし中々乗らないモトーラ世理奈氏。出発の合図がありドアが閉まるギリギリのタイミングでも躊躇する仕草を挟んで気力を振り絞るように電車に乗り込む。

長過ぎると感じた電車を待つシーンだったが、鑑賞者としての私にも必要な時間だったのが直ぐにわかった。電車を待ちながら、色々と考えるのに必要な時間だった。あの友人に「死ぬなよ」と言える為には、私は、どんな私に成れば良いだろうか?どんな関係性なら?助けの手を差し出したとして、その手を引っ込めるタイミングは?引っ込める理由は?差し出した理由は?自らの身体や心を壊すほどでは不味いかもしれないが、そんな器用には加減出来ない、等々考えていた。このシーンの他にも必要なところには余韻というか、情報量を減らして、考える、感じる時間が設けられている。

家族と一緒だった頃の回想シーンだろうか?違うようだ、ヒッチハイクで乗せてもらった車の中で寝ているモトーラ世理奈氏。「家出か?こんなところで制服でヒッチハイクとか、ヤバイって、事件とかに巻き込まれたらどうすんのよ」と、深く関わることに抵抗を示すカトウシンスケ氏が運転し、「じゃ、とりあえずご飯でも食べる?お腹空いた、ほら、二人分なんだから」と助手席には妊婦の山本未来氏。何でそうなんのよと云いながらもファミレス風の飲食店に入り、料理が運ばれてくる。中華料理かな?色んな種類を頼んで皆で食べるスタイルだ。

「ちょっと待って」と、運ばれてきたチャーハンを真っ先に直に食べようとしたカトウシンスケ氏を止める山本未来氏。カトウシンスケ氏「え、何?写メ?」山本未来氏「違うわよ、だって、こんなおじさんが食べた後じゃ嫌でしょ?ほら、先に食べて」カトウシンスケ氏「何だ、てっきりSNS とかに熱心な人なのかと思った」という中々に面白いやり取りに発展し、さすがにモトーラ世理奈氏も笑ってしまう。このシーンから、カトウシンスケ氏と山本未来氏は、(出産の為に帰省する?)久々に会う姉弟であることが分かる。

三浦友和氏の宅で別府康子氏の話を聞いている時も穏やかな顔を見せていたが、ハルがこんなに笑うのはこのシーンが初めてだ、と思った直後に「うっ」と急にお腹が張ってきたと告げる山本未来氏。奥で休ませて貰おうとカトウシンスケ氏に連れられて座敷に向かうが、取り残されてしまうモトーラ世理奈氏に「気にしないで、食べてて」と告げる山本未来氏。

横になる山本未来氏に寄り添うモトーラ世理奈氏。山本未来氏「あっ!動いたのよ、今、触ってみる?」優しい表情で山本未来氏のお腹に手を当てるモトーラ世理奈氏。山本未来氏「赤ちゃん欲しいとか思う?」モトーラ世理奈氏は間を空けてから「わからない」と答えるが、赤ちゃんが動いたのが伝わり、嬉しそうだ。

この映画の冒頭までは、渡辺真起子氏がモトーラ世理奈氏に寄り添っていたわけだが、三浦友和氏と出会った後からは、亡くなった娘として手を握られて別府康子氏に寄り添う、お腹の張った妊婦の山本未来に寄り添う、モトーラ世理奈氏。

弱った時に、最初は誰かに寄り添って貰ったり、助けて貰ったりした後で、弱った側の者が他者に寄り添ったり、些細なことでも他者を助けたりするのが、弱った者の治癒に繋がるのには、覚えがある。

また、この映画の中には、命の大切さを説くような、露骨に野暮で無神経な、台詞は無い。むしろ、命の大切さが故にモトーラ世理奈氏は気力を失ったのだから。

別れ際に、「ちょっと財布貸して」と言うカトウシンスケ氏。抵抗無く財布を差し出すモトーラ世理奈氏。

このシーンでは、お?と若干の違和感を感じたが、短い間のやり取りでも、そんなに心配することもないか、とも思いながら観ていたが、今思えば、全てを、奪われたモトーラ世理奈氏の状況と飲食店でのやり取りを想像すると、これくらいのユニークな印象を与えるやり取りもあり得るのかもしれないと思った。

財布を受け取ったカトウシンスケ氏は中身を確認して、自分の財布からお金を取り出し「五千円、貸しとくから、これ、名刺。必ず返してね」と財布を返し、名刺を渡し、念を押す。

五千円か。何だか色々な想像をしてみて、それ以外に無い丁度良い金額に思えて、しかし根拠のある計算が出来たわけでもないのに、不思議な気持ちだ。また、必ず返せと言うのも、一万円ではなく五千円なのも、ケチだからではなく、モトーラ世理奈氏に責務を作って社会に引き留めるようなニュアンスで、心配だからなのだと伝わる。

諏訪監督曰く、最初は、そんな予定は無かったが、カトウシンスケ氏が「このまま帰すわけにはゆかない」と提案したのが五千円のやり取りのシーンなのだそうだ。気に入りのシーンとして、強く記憶された。

次の車を求めて手を上げて、再度ヒッチハイクを試みるが中々止まる車は無い。この時は既にジャンパーを羽織っていたかな?そうだ、順序は思い出せないが、私服を買うシーンもあった。しかし車は止まらないまま夜になり、パーキングエリアのベンチに座って菓子パンを食べていると、柄の悪い男二人組が「いいもん食べてるじゃん」と絡んできた。「遊ぼうよ」と荷物を奪って無理矢理車に連れ込もうとするが抵抗する。近くの車に助けをも止めるが反応が無い、、危ないところで一台の車が止まり、中から男が出てきて「やめろ」と助ける、西島秀俊氏だ。落ち着き払って堂々とした西島秀俊氏に対して、警戒したのか?柄の悪い男たちは「この子は俺たちの連れだ、邪魔すんな」など言いながらも、強い抵抗は出来ない、自分の車の扉を開けると「乗れ」とモトーラ世理奈氏を乗せる西島秀俊氏。

ここで、西島秀俊氏の車なら安全なのか?と考えるのではなく、鑑賞者自らが、安全な車に、助ける車になれるか、を考えれば良いのかもしれない。

「ちょっといいか?」と、インド料理屋に入る西島秀俊氏、自身はチャイを頼み、何飲む?と訊いてもモトーラ世理奈氏は答えないので、ジンジャーエールを頼む。西島秀俊氏は、福島県でボランティアをしていた時に知り合ったインド人の知人を捜しているようだ。捜している人物は、入管に捕まっており、今は会えないと分かる。捕まった人物の家族は、子供たちのことや生活のことなど困っているようだと、その家族に電話して貰い、会うことになる。

捜していたインド人の知人の家族の宅でご飯をご馳走して貰う、西島秀俊氏とモトーラ世理奈氏。モトーラ世理奈氏は、同じ歳くらいの人と話す。その人は、日本語を話せない患者が病院で困っているのを知り、だったら自分が看護師になっちゃう?と思って、看護師を目指しているのだと話す。貴方は何を目指しているの?と訊かれるが、答えられず、間が空き、「未だわからない」と伝えるが、__.全てを奪われて生きる気力すら無いのに__という気持ちからの困惑ではなく、ただ、未だわからないという感じの印象だ。

順序や詳細は思い出せないが、「俺は、ここまでしか送れないからな」旨言っていた西島秀俊氏は、どのタイミングでだったか、やはりモトーラ世理奈氏を岩手まで送ると言う。

西島秀俊氏の宅に寄る、長らく誰も居なかったような家だ。

もうひとつ、これもどんな順序だったか、誰の家だったか思い出せないが、強烈な印象を残した、楽しそうな食事のシーンがあった。西田敏行氏が「最初はビールって、二杯目だから日本酒でしょう、決まってるでしょうよ」と陽気なリクエストをする、テンポ良くそれに答える池津祥子氏。

諏訪監督曰く、このシーンでは、一切のリハーサルも無く、ぶっつけ本番で完全なる即興、西田敏行氏の恐るべき特殊能力なのだ、と。本当に凄い。西田敏行氏へのインタビュー記事が面白かったので、↓URL を添付します。

映画情報サイト『クランイン!!』のインタビュー記事___西田敏行、台本なしの現場は「まるでジャズの即興演奏」 故郷・福島への熱い思いを吐露___

実家の近くの駐車場で友人のお母さんを見付けて呼び止める、何年振りか、相手は気付かない。自分はハルだと説明すると、友人のお母さん占部房子氏は「久し振り、大きくなったわね、いま、高校二年生?そう、高校二年生だわね、、」と、あの年の3.11が何年前なのかは分からないが、改めて数えなくても、直ぐに、高校二年生だとわかるのだ。ハル(モトーラ世理奈氏)を抱き締めて泣く占部房子氏、あの時直前まで占部房子氏の娘と遊んでいた、地震があり、手を繋いで一緒に逃げていたんだけど、手を放しちゃって、ごめんなさい、と謝るモトーラ世理奈氏。占部房子氏は「ううん、ありがと、一緒にいてくれて」とハルを抱き締める。

全て流されてしまった街並みを前に、実家の場所がわかるのか、心配する西島秀俊氏だが、「わかると思う」と土台しかなくなった、岩手の実家にたどり着くモトーラ世理奈氏。

映画の中で三度くらいあるか、モトーラ世理奈氏が、変性意識状態や幻覚など、何らかの意識の境界を往き来するシーンでは、効果音が入る。音楽が入るのはこの三度のシーンだけだ。最初、説明的なこの音楽を邪魔に思った、しかしこの音楽がないと、亡くなったはずの家族が何故?回想シーンか?などと混乱するか、置いてきぼりをくらっていたかもしれない、この音楽が必要なのを理解した。この映画は、ドキュメンタリー的であり、フィクションであり、所謂現代美術的なエッセンスもあり、しかし大衆映画の枠に踏ん張りとどまるような、私は映画通ではないが、私的には、これまでに体験したことがない新鮮な塩梅の映画だと思った。

実家にたどり着いたモトーラ世理奈氏は、回想するのか、幻覚を見たのか、分からないが、流されたはずの家の中にいる、弟が帰宅する、母親はホースで庭の植物に水やりをしている、弟は父親と庭でボール遊びをしている。モトーラ世理奈氏は、母親(石橋けい氏)を抱き締める、父親(篠原篤氏)を抱き締める、弟とボール遊びをする、、、、、、我に返ったのか、ぺしゃんこに萎んだ赤いボールを摘まんだモトーラ世理奈氏が土台だけの実家の跡地にいるシーンに切り替わる。

車で電車の駅まで送った西島秀俊氏は、モトーラ世理奈氏にお金を渡し、「必ず返します」と言ったモトーラ世理奈氏に「返さなくて良いよ」と言う、優しい声だ。この台詞は、「死ぬなよ」と言った三浦友和氏や「必ず返せよ」と言ったカトウシンスケ氏が心配したハルから、もう死にそうな雰囲気でもなく、危なっかしい雰囲気でもない、大丈夫なハルになったというサインだ。そのサインを鑑賞者の私も共有していたんだなぁと、この台詞が、自覚させた。
 
駅のホームで電車を待っていると、小学生くらいの少年が◯◯駅へ行くにはこの電車で良いのか?と訊いて来た、小学生くらいだろうか?少年が一人で何処へ行くのか気になり尋ねるモトーラ世理奈氏。「風の電話」という、会えない人と話せる電話があり、そこに行くのだと答える少年。自分も一緒に行きたいと頼み同行することになる、道中、少年は親も誘ったが親は行きたがらなかったので、親には黙っ出てきた旨話すと、とりあえず直ぐに親に電話するよう少年を諭すモトーラ世理奈氏。

これには、ハル(モトーラ世理奈氏)も叔母さんのところに連絡しろよ!という突っ込みの声があったそうだが、既に叔母さんの意識は回復しているのか、他にも親族はいるのか?否、本当に弱った時には、自分のことはほったらかしのままでも、先ずは、他人の世話をやくことから始めて、余裕が出てきたら自分の世話をやくことも再開するという順序の方が具合良く回復できる場合もある。

先に少年が「風の電話」をかける。次にハル(モトーラ世理奈氏)がかける。

諏訪監督曰く、モトーラ世理奈氏は、前日にホテルで自主練習をしていたが、どうにも違う、用意した言葉では嘘だと感じて、まっさらにして、当日の本番で全てアドリブで演じたそうだ。ロードムービーだから、全部順番通りに撮っていったから、その中でハル(モトーラ世理奈氏)が体験した、経験したことから出てきた台詞なんだよね、と。凄い。

この映画の中の台詞を文字にして、言葉だけにして切り取ると、この台詞は変じゃないか?と違和感を感じる箇所が気になり、切り取った言葉を、演技と物語と、声と状況と、その他の幾つかの要素を頭の中で再び合わせていたら、思い出した。

大切な人を真剣に励まそうとした時、心配していた時、咄嗟に出た言葉や態度が失敗していた経験がある、何度か、否、たくさんある、自覚のあるだけでもだ。とても大事な状況である程、間違えてしまう。早口言葉に失敗したみたいに噛んでしまい、「ごめん、もう一度言って?」と言われてしまったこともある。

つまり、本当の気持ちから出てきた言葉こそ、何だか違和感を与えるような、歪な形をしていることも少なくないのだ。。

真っ直ぐに形の揃った高級な野菜よりも、くねくね曲がっていたり、何又かに別れた人参が元々の姿に近いはずなのに、それを便利なように矯正して整えて、どれも同じような形にしているのに慣れて、くねくね曲がったり何又かに別れた人参に違和感を感じているのとも似ているかしら、ちょっと違うか。。

一方で、同じような場面に遭遇して、同じような言葉を受けても、違和感は感じないのかもしれない、これが映画だから、演技だから、と侮った時に、こういう違和感が気になって、台詞だけを切り取って、他を見えなく、聞こえなくしてしまうのかもしれない。

この日一番鋭い目で、諏訪監督が言った、「結局、信じないひとは、何を観ても信じない」と。何かを信じている人間の目だ、何かを信じている人間の声だ。

これは、映画を作る側だけでなく、観る側にも責任があることを意味している。大切な、映画体験の為の責任だ。諏訪監督は、鑑賞者を信じて作っている。
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追伸:この感想文は、記憶を手繰って書き出したものです。引用した諏監督の言葉及び映画の描写は、実際とは違う箇所があるかもしれません、悪しからず。

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