ジブリ 宮崎駿『千と千尋の神隠』について

実写と比べて、アニメであるということのやや現実味の薄められた世界観の中で、親の仕事の都合で転校することになり、すねる千尋、というかなり現実的な状況をぶつけてくるのが始まりか。

新居に向かう車の中で寝ている千尋を起こしたお母さんが「良さそうなところじゃない、あれ、今度の学校よ」と言うが、千尋は学校に向かって舌をべーーと出してシートでふんぞり返っている。

あれ、道を一本間違えたかな?この道から行けそうかな?とお父さん、やめてよ迷子になるんだからと止めるお母さん、行くぞ!この車は4駆だぞ!と自信満々に中々に険しい道を進むお父さん。『カリオストロの城』におけるルパン三世のアクロバティックな運転を想起させるか、開いた窓から枝葉が入ってくるくらいの険しい道でガタガタ揺れる車の中でシートベルトをしてない千尋は不安そう。。

トンネルの門の前で止まる、お父さんは車から降りてトンネルに近づいて中を覗く、千尋もお父さんの後に続いて車を降りる、やめなさいよとお母さんは乗り気じゃない。

トンネルが風を吸い込んでいるのに気づく千尋、と同時にいつの間にかお母さんも車から降りてお父さんの隣にいる、お父さんはトンネルの向こうへ行ってみようと提案し、トンネルから不気味な雰囲気を感じとった千尋はやめようよ気味悪いよと止めるが、お父さんもお母さんもトンネルの向こうへ歩き出す、千尋は行かない、一人で車の中で待つ、と思いきや、それはそれで怖いと思ったのか、嫌々ながら私も行く!と二人を追いかけてトンネルに入る。千尋はお母さんに強くしがみつきながら、お母さんは歩きにくいからちょっと離れてよ、と。

千尋はご飯も食べない、でも、トンネルの向こうに行ってしまった。この世界のモノを食べないと消えてしまう、神捧げるためのご飯を食べれば消えないけど家畜の豚になってしまう。

鈴木敏夫のジブリ汗まみれにて、鈴木敏夫曰く、基本的にスタジオ・ジブリの中で起こっていることは、世界中で起こっている。また、世界で起こっていることの全てと何らかの関係あることはスタジオ中でも起こっている旨言ってたかな?人殺しや戦争も起こってるのか?とか、いちゃもんつけたいなら幾らでも曲解できるだろうけど、どんな人間であろうと、人が三人以上集まったら何らかの暴力が発生しないわけないだろ?三人以上集まれば暴力のバリエーションだってだいたい揃うんじゃないか?

で、『千と千尋の神隠し』は、スタジオの関係者?の娘さんが引きこもりになってたのかな?その関係者の娘さんとは別に、巷では、対人関係が上手く行かなくて人と上手く話せない人がキャバクラとかで働き始めたら段々とお客さんと話せるようになったというエピソードがあり、で、それらの事柄を掛け合わせて、関係者家族のためにこの作品を作ったのだとか話してたな、確か、詳細違ったかも。

坊は、所謂アダルトチルドレンを表している?

『神田橋條治の精神科診察室』P. 88- 
___ 神田橋:アダルトチルドレンは、発達段階のそれぞれの時期で味わわなきゃいけない体験を飛び越して大人っぽくなっているから、子どもとしての時期が短すぎることが問題なんです。___ 

神田橋條治の考察では、自他はまず一体感があって、それから分別していくものであるはずなのに、その一体感を飛ばして分別に進んでいると、アダルトチルドレンになってしまう、と。

坊さは、銭婆(ぜにーば)の魔法でねずみ?に変えられて、いったん腕力を奪われたたが良さそうだ、大人に成らせてくれなかった?もしくは、赤ん坊の時期にちゃんと赤ん坊をやらせてもらえなかった?それを一度腕力を奪ってちゃんと赤ん坊をやらせて、千尋の肩やハエ?に助けられながらも、ネズミのまま自分で歩くようになる。

神田橋條治のアダルトチルドレンについての考察は、フォーク・クルセダーズのメンバーで『あの素晴らしい愛をもう一度』の作詞でもお馴染みの精神科医、北山修氏による浮世絵研究からなる著書『共視論』を踏まえたもののようだ。未だパラパラっとしか読んだこと無いのでじっくり読みたい。

しかし、もしかしたら、自我アイデンティティーの充実というのは、依存先が幾つもあるということだ、と解釈することが出来るのかもしれない。因みに、役割アイデンティティーを放棄して、自我アイデンティティーのみに突き進むのも、それはそれでパラノイア的というか、大変なことになると想像する。

しかし気になるのは、坊がネズミから元の姿に戻って「千をいじめると、ばあば嫌いになっちゃうぞ」と言うシーンだ。自分のことだけでなく、千のことまで思いやれるようになったのは、明らかに成長だ。しかし、機嫌で相手をコントロールしようとするのは、まだ少し乱暴なところがある。しかしこれは、湯婆婆(ゆばーば)にこそ大いに問題がありそうだ。

神田橋條治の「神田橋語録」の中には、

「子供が怒るからと合わせていると、その子は、合わせる人としかやっていけない人間になってしまう、そう仕立て上げているようなものだ。」

という言葉がある。

※ ネットで「神田橋語録」と検索すれば、無料で読める。

さて、当事者研究や小児科医の医師として有名な電動車椅子ユーザーでもある熊谷晋一郎は、ある年齢まで自分は依存先が母親しかなかった、今は依存先がたくさんある、依存先を作った、依存先がたくさんあるということが自立するということだ、と。

【熊谷晋一郎×落合陽一】
 自立しなさいって何?
https://youtu.be/8J5TQBxaQaU

木村敏『自己・あいだ・時間』P. 85- の、クラウスという精神科医の考えを元に語る箇所を参照するなら、キャバクラで働きはじめてお客さんと話せるようになったというのは、もしかしたら、「役割アイデンティティー」をゲットしたということなのかもしれない。しかし自我アイデンティティーも育てないと、役割アイデンティティーだけに依存すると、環境や時代や状態の変化に対応出来なくなったときには、必ずアイデンティティーが激しく不安定になり、鬱になる。つまり、役割アイデンティティーに依存し過ぎた状態の人を「前鬱病者」と呼ぶ旨が書いてあったはず、しっかり読めてないのでまちかってるかも、読み直さなければ。。

さてさて、熊谷晋一郎はある年齢までは限りなく自罰的であった、と。良くないこと辛いこと何でも自分のせいだと思っていた、と。そこで、ある時に思考実験で、悪いのは親だ、社会だ、この世界だ、と徹底的に他罰的になるゲームのようなことをしてみた、と。

自罰的というのはもう思考の癖だから、最初からバランスの良い具合に矯正しようとしても上手くゆかないし、嘘っぽい、と。いったん振り切って極端な他罰的思考の生活をやってみて、段々に、というのは説得力がある。ダイレクトに変えようと思っても、ポテンシャル障壁のようなものが邪魔をするだろうか、きっと。

反射運動のように、何か思わしくないことが起こる(ある点)、自分が悪いと感ずる(別のある点)までは極めて自動的に連結されていて、非可逆的に移動する、離散的な運動だ。道を歩いていてちょっとした段差に躓いたら、予め許可を取った特定の友人に連絡して、例えば「今、何してた?え?飯食ってた?何食ってんの?ラーメン?木曜なのに?木曜なのにお前ラーメンくっちゃーそりゃ、俺、お前のせいで躓いちゃったじゃないか、こにゃーろー(怒)」というゲームをしてみるのはどーだろ?

↑ ここら辺の話は、また後々じっくり掘り下げたい。

さてさてさて、ユバアバの世界では、働かないと消えてしまう。斎藤環的には、学校行かないなら働け!というアプローチは推奨できない、もしくは、自分が介入できるのは、あくまでも親子間での閉ざされた対話の回復を目指すケースのみだとしている。しかし斎藤環は、何が正しいとかは無い、それで具合良く成ったなら、その人にとってはそれが良い方法だったのだ、とも言っている。『千と千尋の神隠し』は、中々に強引なアプローチではあるわけだが、それを他の様々な豊かなノイズによって和らげているだろうか?否、やはり厳しい指導なのだろうか?

再び話が脱線してしまったが、とかく導入部でのお父さんお母さん千尋の三者が目まぐるしく入れ替わり立ち代わりで、積極的になったり消極的になったり否定的態度になったり自閉的になろうとしながら各々立場をコロコロ変えて、変化に追い付かない、否、お父さんは常に積極的にどんどん突き進んでいったのか?千尋とお母さんの消極的/積極的のスイッチがコロコロ変化していたのか。しかしそれらのことが気にならないくらい滑らかに進んで、物語を観ているのだから当然なのに、わざわざ、「この三人がトンネルに吸い込まれていったのは最初から決まっていたことなのだ」と思わせるほどスムーズで、抗えない。

否、観ているこちらも、登場の誰かに感情移入するでもなく、私は私のままトンネルの向こうに吸い込まれてしまっていたような気がする。

斉藤有吾


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