山城知佳子監督作品:『創造の発端 一 アブダクション/子供一 』について/斉藤有吾

電話越しに待たされる時の、あの乱暴な計らいへの苛立ち、退屈、終わりの見えない不快感が染み付いて離れない名曲、ベートーヴェン作曲『エリーゼのために』は、最早、あのラン・ランの才能を以てしても、中々に愛し難い楽曲となってしまったのだろうか?

アパートメントの一室、朝だ、ダンサーの川口隆夫氏が鼻歌を歌いながら、焼き上がった食パンにジャムを塗る、小気味良い動きだ。鼻歌は、ベートーヴェン作曲『エリーゼのために』だ。うっかり頭の中で、川口隆夫氏の鼻歌をなぞって、この名曲を口ずさんでいた。

ベートーヴェン:『エリーゼのために』/ラン・ラン(piano)

川口隆夫氏が髪を結び、準備を整えて、出発する。

アトリエの姿見は縦長で、近くに寄ると、身体の全てを写すことができず、はみ出してしまう、これも暗喩だろうか。

大野一雄(舞踏家)のパフォーマンス映像を分析して、その舞踊を完全コピーする作品のための訓練だ。焼き上がった食パンにジャムを塗るように、大野一雄の形を真似る。日常的な行為であるという意味ではない。日常的な所作すらダンスだという意味なら、然程外れていないかもしれないが、それも未だ上手くない。

朝食のシーンでもそれが目立つようなカットがあったのだが、猫に引っ掻かれた傷だろうか?川口隆夫氏の足や腕には、薄く細い真新しい傷がある。舞踊の訓練で出来た傷だろうか?とも思ったが、そういう傷が出来そうな訓練のシーンは無い、否、地を這う動作の訓練で付いた傷だろうか?

繋ぎ合わされた幾つかのパフォーマンス映像の中に、川口隆夫氏の、その身体の可能なはずの動きやポーズからは逸脱したような、別の何かに乗っ取られて、上手く乗りこなせないで、ぎこちない、身体が動かされるモノに成っているようなシーンがあった。

否、そもそも舞踏はぎこちない動きに見えるのかもしれないが、純度の違いか?違う、これは、コピーが完成したのだ。

動かされるモノに成った川口隆夫氏の身体は、暗号の解けた、脱コード化された状態とも言えるだろうか?何にでも成れるし、どんな動きだって可能だ、でも、動き過ぎると壊れてしまう、危ない、無防備な状態だ、優しく操作しなければならない。やはり完成したということなのだろうと思う、完全コピーだ。

あれから、たまに『エリーゼのために』を口笛で楽しんでいる、気に入ってしまったようだ。

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