展示『私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ』について/斉藤有吾

未だ当該展示をご覧になられていない方は、この感想文をお読みにならない方が良いかもしれません。せっかくの溌剌たる鑑賞体験を邪魔するノイズに満ち溢れているかもしれません、ご注意下さい。
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⬛ 高川和也

煙草を持った右手と、薬指に指輪をはめた左手、高川氏自身の手が映るシーンから始まる。続いては、FUNI 氏が高川氏に語りかけるような調子で問いかけるような調子でラップを披露するシーンだ。

「本作は一部に暴力的、差別的、卑猥な表現や言い回しが含まれています。」と注意書のある、52分の、ドキュメンタリー風の映像作品だ。

FUNI 氏と高川氏の対談シーンでは、度々唐突に、引きのショットからFUNI 氏の正面アップからのショットに切り替わるのが印象的だ。アップのショットは、引きのショットと同じ空間だとは思えない、奇妙な印象を受ける。アップのショットでは、FUNI 氏の前から高川氏の気配が消えて、高川氏に向けられたはずのFUNI 氏の言葉が行き場を失い、空転して墜落する。スクリーンを見つめる私には、FUNI 氏の言葉を受け取る術はない、地面に落ちた言葉を拾い集める。

私はこの作品を何度か観て、今、何についての再考(脱構築?)を迫られているのだろうか? 

もしかしたら懺悔であったはずのものが、呟きであったはずのものが、独白が、広く拡散されることを望んだのか?拡散されている。

SNSで誰かの名前が叩かれる。

彼と同じ名字の友人知人はいただろうか?同じ名字のお気に入りの有名人でも良い。彼らは、自分と同じ名字であるというその属性から、自分と同じ名字を指して悪口を言われた時、心が動いただろうか?

街中で自分と同じ名字を呼ばれたら、ついつい振り向いてしまう。

否定したり肯定したり拡散したり無視したり、過去の誰かが書いた言葉は誰のものでもなくなっていく?叩かれた誰かの名前だけが残る。言葉の部分が切り取られて編集されて拡散されて、誰かの感情と結び付くことで、限定的な意味がずらされていく。

映像の中に登場する高川氏は、何も信じていない、だから、何でも信じてしまう。そんな自分が怖くて、何も信じないぞ!と構えているようにも見えた。

例えば、映像の中で高川氏が、演んじるようなことをするのは苦手だと漏らすシーンがある。演じるということが、自分自身の本性を隠蔽するどころか、防衛の為の暗号を解いて無防備になってしまうかもしれないことだと知っているんじゃないか?否、全てが編集という名の上手な演技か?と、無責任な感想を垂れ流す。これが無責任な呟きの公開か?

左手薬指の指輪と、日記に書くことで押さえられた感情。一人で抱えきれなくなったものを吐き出すことで何とか化物に成らずに済んだ、日記、ラップ。教会での懺悔。

日記の内容とこのリズムとは何の関係もない、関係ないものと組み合わせることで、見せられなかった日記も見せることが出来るようになる、とポジティブな物語に誘導するが、書くだけで効能のある日記なら、わざわざ公開する必要があるのか?

臆測の域を出ないが、ラップの歌詞にある「犬になりたい」や「スケッチブックと鉛筆、あとは消しゴム」という句は、当該展示鑑賞ガイドの解説によるところの「日記の読み解きをおこなうグループワーク」やFUNI 氏の力を借り、メタファーによる言い換えと性教育的指導が施されたものか?手付かずの日記のままの言葉と、それに対応した、様々なる意匠の施された言葉が、螺旋を描くように、巧妙に繋ぎ合わされているのでは?つまり、同意があるのなら、犬になるのはいいが「消しゴム」は必要だ、と。

Consent – it’s simple as tea(日本語版)

性的同意を紅茶に置き換えた動画の存在を知り、性的なことに限らず、これに習って想像する対話を心掛けているが、難しい。

待てよ、欲望に教育的指導?というのは、思想の自由に干渉している。映画『時計仕掛けのオレンジ』の主人公への洗脳シーンを想起させる、怖い。問題は、「暴力的、差別的、卑猥な表現や言い回し」が表出/公開されたことでは?本人の死後勝手に公開されたマリノフスキーの日記とは違い、高川氏の場合は日記を書いた本人が公開しているのでややこしいが、ここは、きっちりと分けた方が良い。欲望に対する指導ではなく、欲望の表出/公開に対する指導、対話だ。

しかし日記の公開が、この作品が懺悔/オープンダイアローグだったなら、私は、それに参加していることになるのか?この作品についての感想を述べることは、どんなに些細なつもりの言葉であっても、迚もパーソナルな告白をするのと同じだ、そんな気がする。

森川すいめい著『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』は、所謂オープンダイアローグを実施するか否かに限らず、日常的な他者/自己との対話(ダイアローグ)にも応用したくなるアイディアが濃縮されて、平易な言葉使いで丁寧に紹介されている。対話の具体的なやり取りの再現も交えて、どのような効果が?何故そうするのか?が分かりやすく解説されている、なるほど!もっと早く知っていれば!の連発だ。

しかし罪を告白された側、日記に書かれた側/軽んじられたように感じた特定の属性は?例えば、仮に高川氏が太った女に目がない嗜好であったなら、日記にある「太った女」という句は、自分の好みの女の外見的特徴を形容することで、魅力的な女であることを記しただけか?否、他人の外見的特徴を形容すること自体がルッキズムとして、警戒の対象となり得る。

しかしこれはドキュメンタリー風の作品であり、公開する前提で書かれた日記ではなく、こんなに多くの人に観られるなんて、日記を書いた時の作家からすれば想定外、本当か?という設定である。仮にこの設定を鵜呑みにすれば、日記は台本と、ラップの歌詞は台詞と、迷わず峻別されるだろうか?

仮にこの作品が所謂フィクション的な形式だったなら、台詞には台本があり、台本は物語の為にあり、演者の台詞と演者自身とが直接に結び付けられて、文脈や作品全体から切り離されて、問題のある台詞の発語者が直接責任を追及される可能性は低いだろうか?監督が演者も兼ねた場合には、ドキュメンタリー風の作品と変わらず、監督の台詞と監督の人格とが直接に結び付けられるだろうか?

プライベートを晒している有名作家なら、例えば、この作家はこういう政治家と交流があるから、これは観るまでもなく戦争賛美の作品だ!と、作家自身の生活態度や交遊関係が作品に込められた意図と同一視されて判断されるだろうか?

さて、ふくよかであることが美しいことであるという価値観が優勢な国は割りとたくさんあるようだ。現代の日本では痩せていることが美しいとする広告が未だに蔓延して、ダイエット産業も賑わっているだろうか?その時々の人気のある芸能人等の影響を受けて世間で人気のある顔の系統が決まるような、流行で好き嫌いを変えるような人びとが少なくないのは、容姿の好みも音楽や洋服の好みも、行列のできるラーメン屋に並ぶのと似ているのかもしれないぞ?タレントの渡辺直美氏は、この日本でも、ふくよかであることと魅力的であることが両立するという価値観を広めただろうか。

摂食障害の当事者が書いた記事や当事者へのインタビュー記事を幾つか読んだことがある。容姿に限らず、誰かを褒める時に、「その属性を持たない家族や友人、大切な人びとは、、、私もその属性を失ったなら、、」「そこに私はいない」と、相手が不安に思うような褒め方をしていないだろうか?また、例え当事者であっても、当事者であることのみを理由に、自らの属性を軽んじたり侮蔑する行為が正当化されるわけではない。

では、特定の属性への批判は可能だろうか?これは、侮蔑や悪口の類いと「批判」とは違うという前提の問いだが、「批判」とは、対立する二項AとCに橋を掛けるBを見付けることだ、というのが私の気に入りの定義だ。

しかし、ひとりの人間が特定の属性を代表することなど出来ない、「ある人びとの内面の心理を一般化することは知的無責任であるのはもちろんのこと、傲慢の極みである」という社会学の教えを反芻する。否、ルッキズムの問題は、ムードという名の社会的構造と個人の意識構造との密接な関係を重要な焦点の一つと考えるなら、あの有名なスローガン「個人的なことは政治的なこと」の担当領域か?この二つの教えの重ね合わせで考えるのか?勿論、多宇宙理論も道連れだ。

当該作品をもっと暴力的な意味に解釈することも可能だ、幾らでも。

日記を書いた高川氏から出てきた言葉、間に色々と挟んで今、この感想文を書いて、危うい言葉を拡散させる私(斉藤有吾)、罪は何処へ?

言葉が発せられたら、意図とは関係なく、特定の属性に向けられた侮蔑的な発言として解釈可能であれば、ヘイトスピーチとして非難されるかもしれない。

このスマホとSNSの時代に、言葉の部分を切り取られて怒るなんて、寝言でもこいてんのか?という声もあるかもしれない。「私は傷ついた、だからこれは暴力だ!間違いない!」というのは、戦いだ。「私も同じ目に遭った!私も傷ついた!あの人は私だ!私はあの人だ!」というのは、戦争だ。「お前の受け取り方に問題がある!私は暴力など振るってはいない!お前の為を思ってだぞ?弄っただけだ、いじめ?暴力?被害妄想だ!私がお前にするのはよいが、お前が私にするのはよくない!私とお前とは対等ではないのだぞ!歯向かうのか?」というのは、加害者側の言い訳の言葉/態度としても人気だ。冤罪?

モンテスキュー著『法の精神 (上) 』____もしも同一の人間、または、貴族もしくは人民の有力者の同一団体が、これら三つの権力、すなわち、法律を作る権力、公的な決定を執行する権力、犯罪や個人間の紛争を裁判する権力を行使するならば、すべては失われるであろう。____(P292)

権力の濫用を防ぎ、人民の政治的自由を保障するため、国家権力を立法・司法・行政の相互に独立する三機関に委ねようとする原理「三権分立」は、日本国憲法にも反映されている。しかしこの三つの権力の座に即く人びとの多くは、「年老いた男」という属性を持っている。「年老いた男」という属性を持たない多くの人びとは、この三つの権力から疎外されているのか?「人民の政治的自由」とは、一部の年老いた男たちの政治的自由のことなのか?詰まるところ、三権分立をカムフラージュにして、実際には、三つの権力は結合され、その権力(パワー) は、「年老いた男」という属性を持った一部の人びとに委ねられているのか?

パワーによって揉み消されてきた声、圧し殺されてきた声、未だこのパワーに対抗し得る手段は# Metoo 運動だけだろうか?# Metoo 運動は、スマホとSNSによって三つの権力(立法・司法・行政) を統合し得る潜勢的(ヴァーチャル)な戦闘手段だ。

# Metoo 運動自体を丸ごとすべて否定することは、現況の、一部の年老いた男たちの圧倒的なパワーを丸ごと肯定・強化するのと同じだ。しかし、例えば「第三者が事実を知り得る案件なのか?」また「判断材料は?」といった問いは、如何なる手順を踏めば可能だろうか?

否、# Metoo 運動という形式自体が議論の為のものではなく、戦いの為の形式であるなら、自我の正義への帰入、主観と客観との絶対的合一を説くだろうか?

例えば、ヴァリー・エクスポートという女性は、下腹部が切り取られたレザーパンツを履いて、股間丸出しの状態でライフル銃を持って、映画館の客席の間を練り歩いた、自分が欲情しているという旨のセリフを吐きながらだったか?そういうパフォーマンスをしたそうだ。良いパフォーマンスだと思った。自分よりも腕力の強い相手が自分に向かって目の前で欲情しているってのは、怖いんだぞ?というメッセージだ。これは、観客に対して、絶対的な正義を突きつけているという点に於いて、# Metoo 運動的なパフォーマンスだ。しかし勿論、絶対的な正義など幻想だ。正義は、とても限定的にしか、誰かが疎外された状態でしか成立し得ない。

例えば、銃乱射事件の生き残りなら、過去に女性から虐待を受けていたなら、戦争帰りだったなら、ヴァリー・エクスポートのパフォーマンスに対して、フェミニズムなんてどーでもいいわ、恐いわ、、、無理、となるかもしれない。つまり、彼女のパフォーマンスも絶対的な正義ではないわけだ。しかし、銃乱射事件の生き残りではないからなのか、戦争帰りではないからなのか、虐待を受けなかったからなのか、私は、ヴァリー・エクスポートのパフォーマンスの記録を気に入っている。

ダナ・ハラウェイ著『猿と女とサイボーグ』____無垢であること、そしてその必然的結果としての被害者性を洞察の唯一の立脚点として主張することは、すでに充分なダメージをもたらした。____(P303)

 ↑ このハラウェイの句は1980年代のものだが、今も役目を終えていない。また、この句の「被害者性」という語を「加害者性」または「当事者性」と入れ換えても、身の引き締まる句として成立する。

しかし、当該作品の中で高川氏自身が「ラップ」の定義を問うシーンには間の抜けた印象を受けた。この問いかけは、否、この作品は、ツッコミを入れた者を知者として、高川氏/当該作品は無知を装い、能動的に対話を開いた呑気な者に対してのみ発動する、不親切なアイロニーなのだろうか?

不親切なアイロニーは、説明出来ないモノやコトを迂闊に説明してしまった人びとの無責任さと傲慢さを告発するのだろうか?
所謂神秘体験を説明するが如く、否定神学的な表現や、「光輝く闇」や「いっさいを含んだ無」などの矛盾逆説による表現でしか、否、説明出来ないモノやコトを、、、

自分自身の中の加害者性と被害者性との間で揺さぶられながら、迷いながら書いた、長い言い訳のようだ。今の時点で考え得る解釈可能性の中から重要だと思う箇所を順序不同に列挙したが、これ等を切り離された断片的な現象として取り扱うのでは、当該作品の、全体的な意味活動と私たちとの間の有機的な関係は、探究されない。否、そんな探究が可能なのだろうか?少なくとも、今の私では力不足のようだ。

今後もいよいよ勉強に励みます。お気付きの点がありましたら、批判やツッコミを宜しくお願い致します。

なお、# Metoo 運動については千葉雅也/二村ヒトシ/柴田英里の対談本『欲望会議』からアイディアを頂きました。また別の機会に、# Metoo 運動及びSNS&スマホの時代について今の自分なりにまとめる予定です。これがまとまれば、「懺悔」について、「告解規定書」や「贖宥(免償)」などの関連とSNSワールドとを繋ぎ合わせて高川氏の作品を掘り下げることが可能になるのですが、今回は断念。
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⬛ 工藤春香

薄くて小さかったはずの壁が、何枚も重なって何度も積み上げられて凋落して剥がれて、またその上に重なって積み上げられて、繰り返す度に壁の此方と彼方とが遠く隔たれてしまったのだろうか。

壁の前を左か右かに歩いてみれば、壁に隙間が有るかもしれない。隙間に入り込む、行き止まりかもしれない、戻って別の隙間を捜す。壁の全てを把握しなければならないわけではない。迷路を弄るように遣ればいい。

迷路なら、進む先に壁があるかないかが重要だ。壁があるかないかは「0,1」デジタルに置き換え可能だ。

YES /NO だけで完結する迷路を弄るようなコミュニケーションは、離散的なのかもしれない。何故「好き/嫌い」なのか?をさがして、例えば「辛い」が重要な原因でカレーが「好き」だと分かれば、他にもお薦めの辛い料理があるだろう。これを重ねればコミュニケーションに連続性が出てくるだろうか?しかし、好き嫌いに原因が見付からないこともある、言葉を使って掘り下げる必要のないこともある。

ああしたらこうなる、だから、こうならないように予め対策をとる、先回りして過去の失敗と成功を書き出す。原因が分からないなりにも、成功/失敗した時の毎度共通する条件をある程度客観的に整理する必要がある。このような地図を作る時には、周りの助けを借りれるなら、借りたい。成功したい/失敗したくない等の欲望剥き出しの状態では、判断が狂いやすいからだ。

2つの選択肢「YES /NO 」が枝分かれして、更に4つの8つの「YES /NO 」という風に、こうならないようにどーするかの地図がどんどん増える。この地図の中には、原因の分かるものもあり、離散的な地図の中にも連続的な物語が記される。

そして、未だ知らぬ人物やモノやコトや状態との出会いもある。

例えば、撫でようと差し出した手に怯えて縮こまる犬と出会うかもしれない。虐待されてきたのかもしれない。殴ることと、撫でようと差し出した手と、殴ろうと差し出した手とをどうやって見分けられるのか?その犬からすれば、すべて暴力のバリエーションに過ぎないのかもしれない。

撫でる行為は、人間中心主義的だろうか?差し出された手のすべては自分を撫でる為の手だと思い込むことに決める行為は、すべての手を暴力の為のものとして諦めることに似ているだろうか?

上からではなく、下から差し出す手なら、多少怖く無いだろうか?しかし怯える犬を猶も撫でようとする者は、噛まれることを覚悟しなければならない、きっと。

事故?悪気?殴る気がなかった?罪?

これまで作ってきた地図を捨てて、新たな地図を作り始めた方が良い事態が訪れるかもしれない。これまでの地図を捨てるのは怖いかもしれない。捨てずに、脇に寄せて置いて、新しい紙を広げるなら、怖いか?そんなに怖く無さそうだ。例えば「老い」などは、新しい紙を必要とする事態に相当するはずだ。

否、想像することもなかったような地図が重要になる、そんな出会いもある。

或る友人は、当該展示が題材にした或る事件のニュースの直後、その友人の属性が故に、怖くて、外に出れないと言っていた。万が一その友人がこの感想文を読むかもしれない可能性がある中で、読んでお得な言葉が見付からないという自意識の過剰さを細やかな配慮的なる偽善で包み込み、殆んど、このような抽象的なメモに留めた、留まった。

____会場が混雑することを理由に入場制限がしかれ、介助を必要とする障害者や高齢者、乳幼児連れの入場があらかじめ断られていた。そのことに対する抗議として、会場で米津知子氏は《モナ・リザ》の入っているガラスケースに向けて「身障者を締め出すな!」と叫びながら赤いスプレーを噴射した。____(当該展示鑑賞ガイドの作品解説より抜粋)

工藤氏の展示では、この事件の新聞記事を大きさもそのままに模写した絵が設置してありました。事件の内容に対して、この記事の写真の小ささが、、怖い。しかし米津さんは、まさに、私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ、貴方の正しさが、、そこに私は居ない!ということをずっと確認して、戦ってきたのよな、凄い。

この展示で知るまでは、この事件のことを知らず、まさか、七年前にお会いして少しだけお話しさせて頂いた、あの米津さんだ!と気付くまでに数週間もかかった。あの時にこの事件のことを知っていたなら、、米津さんとお会いした時のことを記したFacebookの投稿を引っ張り出して読み直し、謎の喜びと高揚に包まれたので、その時の投稿のURLを添付します。https://www.facebook.com/100002015088945/posts/pfbid02NeorhPNRFthDTmSP1dqZWp1CLAGBbddnqPnZT638mSEUabu9QMSjemLncAE1FzLwl/

先月は、映画『何を怖れる〜フェミニズムを生きた女たち』上映会・トーク&ディスカッションの集いへ行きました。もう、上野千鶴子さん大好きになってしまい、最近は、会う人会う人みんなに上野さんの話ばかりしています。共感できることが多過ぎるのと、頗る...

Posted by Saito Yugo on Monday, February 6, 2017

追伸:展示会場にて、私と友人からの質問に対して根気強く答え、丁寧に解説して下さった工藤氏に感謝。
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⬛ 大久保あり

パンに似ている、絵のようだ、厚い本を見開いたような形だ。主観よりはやや強く、客観よりはだいぶ弱く、科学には到底及ばず、言われてみればそのようにも見えたり見えなかったりする、幾つもの石とそれに対応するように、パン・絵・本などの文字が並べてある。

石の種類?名称も明記してある。たまたま遭遇した友人が石に詳しくて、色々と教えてくれた。何とかという石は緑色で、こんなに白くない、これは表記されている石とは違う!と。しかし凝視したところ石膏か何かで造られた石の形をした立体に緑色の小さな破片が埋まるように貼り付いていた。この破片が表記された石の破片なのかもしれない。否、その破片に見える部位以外を白い塗料で塗りつぶしたのかもしれない。違っても、良い。更に或る石は物凄い時間をかけて造られた、或る石は強い圧力がかかって押し出されるように、また或る石はどのようにどんな環境で出来たのか、、物語があった。

他には、恋文を暗号化して頑張れば解読出来るようにした作品が設置されていた。また、不動産賃貸物件の退出時の現状回復についてのトラブルを題材に、「現状回復」という語の曖昧な表現を弄った作品が設置されていた。他にもたくさんの作品が設置されていた。

幾つかの短い句が日本語英語韓国語、複数の言語に訳されて?壁等に記されていた。ただ翻訳したつもりが、特定の業界の慣習に従って使っただけの語が、その業界の外では、特定の文化圏や/専門分野では特別な意味、全く違った意味を持ち得るかもしれない。

更に、アンティークの地球儀や古書等の写真とその解説と思われる言葉が各々石とその石を形容したような語と対応して並ぶ。写真の解説を読むと、19世紀フランスにまつわるモノが多く集められていることが分かる。

19世紀のフランスといえば、英国のハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られるオーギュスト・コント(1798-1857)がいた。次の世代には、現代フランス社会学の基礎を築いたエミール・デュルケーム(1887-1968)がいた。

ドイツのカール・マルクス(1818-1883)を刺激したサン・シモン(1760-1825)やシャルル・フーリエ(1772-1837)が、そして、ピエール・ジョゼフ・プルードン(1809-1865)がいた。

そうだ、マルキ・ド・サド(1740-1814)やジョルジュ・バタイユ(1897-1962)もいた。数学者ならアンリ・ポアンカレ(1854-1912)が、物理学者ならキュリー夫妻ピエール・キュリー(1859-1906)とマリヤ・スクウォドフスカ(1867-1934)がいた、、、

否、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)がいた。ナポレオンは、その勝利によって幾つもの境界線を撃ち破った。。戦争だ。

この展示の広告に載っている大久保あり氏の作品タイトル『私はこの世界を司る あなたは宇宙に存在する要素』を思い出した。神秘主義 × 還元主義?
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⬛ 良知暁

たまたま遭遇した三人ではぐれたり合流したりを繰り返すように『私の正しさは、、』展を回っていた。1人の友人が、あの時計の前でスマホを取り出して「あれ、あ、今3時50分か」と言ったので、この展示に訪れるのが2度目だったわたしは、何言ってんだろ?と思った。それでも、時計が何時で止まっていたのかまでは覚えていなかったので、作品説明の書いてある紙を取り出して、自分のスマホを取り出して、ここまでで1分。「怖っ」と発語することで驚きをしずめ、更に友人に記念撮影をお願いすることでおさめた、3時52分でした。

さて、人間が人間を振り分ける歴史をテーマとした、この展示。英語が読めなかったり、韓国語が読めなかった。日本語が母国語でも読むスピードが遅くて間に合わなかったりする、映画の字幕を思い出した。映像をじっくりと観たいのに字幕を追うので精一杯な映画を何度も体験した。

或る知人の解説で、あの時計が3時50分/15時50分という、一つの状態が二つの状態を指し示していると知らされるまで、まったくそんなことには気付かなかった。

広いスペースに対して余りにシンプルな構成の展示っぷりにワクワクしたからだろうか、今が午前3時50分な訳がないという感覚が止まった時計であることと混ざったのだろうか?ああ、私は何故「何故、この蛍光灯作品は点灯していないのだろうか?」と思ったのだろう、、、スライドを全部は観れなかったな、、コンマ何秒とかで高速で観たいな、次の文字が表示されるのを待ち、待ち、待ち、待ち時間に本を読めるなら良いのに、一度目にこの展示に訪れた時にはスピノザの『エチカ (上)』を持ち歩いていたのに、数秒毎に本から目を離してスライドを観て、なんて出来ない。待ち疲れた、途中までしか観れなかった、、これらの感覚の全てが混ざって、ぼんやりとしていた。

否、何よりも私は驚く程に英語が分からない。この展示会場ではその事を強く意識させられた。もしかしたらそれが原因で、ある種の疎外されたような気持ちのまま思考停止状態になっていたのでは?とも思えてきた。

会場で配布されていた「シボレート」の冊子を持ち帰ったまま読んでいなかった。スライドも一部しか観ていなかった為に、「ジュウゴエンゴジッセン」とあの止まった時計が示した「ジュウゴジゴジップン」が繋がり、立ち上がる意味を、知人の解説を受けるまで、知らなかった。

同じ知人から、もう一つの解説を貰った。「停まった時計」の表象が、ヒロシマやナガサキといった文脈で使われるときに、近代的な国民国家のナショナリズム(単一民族史観?)に繋がりやすいことに対してのアプローチだという旨だ。これも自力では全く気付かなかった説だ。
 
二度目の鑑賞の後に知人からの解説に助けられ、色々と知らされた後のある日、その建物に入る時、顔の表面温度を計る機械が38.5℃を表示した。炎天下の中を30分ほど歩いてきたので火照っているのだろうか?水を一口飲み、計り直した。体調の不具合もなく、何の自覚症状もない、それでこんな高熱ならよほどの危ない病気だろうか?と不安になったところに、後から来た方が私と全く同じ38.5℃の表示を出した。これは変だと受付の方に声をかけた。受付の方も同じく38.5℃と表示された。これは、我々の表面温度では無いですね、とのことで入場を許された。そして、入場して余裕が出来た処で直ぐに、この展示のことを思い出した。勿論、工藤春香氏の展示で取り上げられていた、米津知子氏のことも思い出した。

しかしぼんやりとしていた私をリテラシーテストで排除すること無く、微塵の侮蔑的な態度も無く、スマートに丁寧に解説してくれた知人に感謝。
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【あとがき】

この感想文を殆んど書き終えた後で、森川すいめい氏のオープンダイアローグについての著書を読み始めた。日常的な対話の為のアイディアとして、当該展示についての感想文を書くのであっても、SNS上のやり取りであっても、この著書に紹介されているような態度で対話できたなら!と反省しつつ参考になる箇所が多々ある。

森川すいめい著『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』____その人がいないところでその人の話をしないのは大原則です。しかし、____相談を受ける側も感情が動いて、特に傷ついたときなどは誰かに話したくなることがあるでしょう。そんなときは、____この困っている「本人」とは、感情が動いたスタッフその人です。「クライアントがどうのこうの……」という話し方ではなくて、相談に来た人がこんなことを話していたのだけれども、そのとき自分はどう思って、いまどうして話をしたくなったのかを意識しながら話すのです。話を聞く側も、話題にあがった人をどう解釈するかではなく、目の前で話しているその人の気持ちを聞きます。こうした意識を持っていると、「そこにいない人たちについて話されたことは、すべて解釈にすぎない」と考えられるようになります。____(P53 - 54)

____しかし言葉や行動というものは、思っていることのほんの一部分でしかありません。さらには、表現されたものはすでに過去のことです。私たちがそれを見聞きした瞬間に、考えはすでに変わっているかもしれません。____ゆえに誰も相手の考えを決めつけたり、評価することもできません。____(P69)

しかし、このようなオープンダイアローグのアイディアを踏まえて、当該展示と如何に向き合い得るのか?更に、マッキノンが列挙したデータ、ドウォーキンの言葉、この二人の急進的な活動と、如何に向き合い得るのか?

アンドレア・ドウォーキン著『贖い』____ブーバーの著作を読み続け、「我と汝」の関係を説明しようと努めた。しかし私がどんなに努力しても、彼らは「我とそれ」の関係を押しつけてくるだけだった。おそらくブーバーは、人生の途上でこの大人たちみたいな人と出逢わなかったのだろうと、私は思った。____(P56)

当該展示の『私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ』というタイトルの「正しさ」と「悲しみあるいは憎しみ」は、主語の「私」と「誰か」で分けられて、対立し得ることを表しています。しかしこの二つは、「悲しみあるいは憎しみ」という「正しさ」として、両立もし得るわけです。また、「私」という主観と「誰か」という客観も合一され得る可能性を含んでいます。

本来ならこのまま四人の作家の展示を連動させた解釈を進めたかったのですが、それには、「懺悔」の概念系を掘り下げる必要があり、私の力不足の為に叶わず。

高川氏の作品の中で、FUNI 氏が、自身の両親はルーツが同じであることのみが理由でお互い言葉が通じない状態で見合い結婚をした旨を語るシーンがある。高川氏本人が「ラップ」の定義について語るシーンがある。思考実験として、例えば、オフビートの「ラップ」の存在を知らない者が、オンビートの「ラップ」こそがラップなのだ!と主張し、オフビートの「ラップ」をラップとは認めないかもしれない。また、「ラップ」の定義を他者と共有する必要は何処に生まれ得るのか?というシンプルな想定から始めてみる。これを、見合い結婚という形式と、ルッキズムに対する「正しさ」とは?という問いと、優生学と、神秘主義と、契約内容の意味の詳細を共有する必要性と、例えば「優れた現代美術作品とは斯くあるものだ!」などのリテラシーに纏わる何らかの苛立ちや排除欲求と、一緒に並べてみる。やはり、これらを連動させるには「懺悔」の語りが必要になる。悔しいが、ここで一先ずは中断とします。

斉藤有吾


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