章夢奇(ジャン・モンチー)監督作品:映画『自画像:47KM のおとぎ話』(2021)について/斉藤有吾

新しい家を作るってよ?どんな家が理想?うーん、言葉では説明出来ない。絵に描いてみたら?絵にも描けない。ジャン・モンチー氏が問い、赤服の子が答えた。赤服の子は、五歳くらいだろうか。

◯◯が新しい家を作るってよ!テレビがあって、宿題が出来て、階段があって、◯◯があって、、、

全部で五回くらい、定期的に赤服の子が両手を広げて大きな声で叫ぶシーンが入る。
否、叫ぶというよりも、鑑賞者の右後ろに抜けるような方角へ向かって大きな声を投げる感じだ。

最初は、言葉に出来ない、絵にも描けないと言っていた理想の家。他の子達が皆で言葉にしたり絵にしたのに習ったのか、赤服の子も、理想の家を言葉にして、絵にも描く。そして、徐々に建設作業は進む。

◯◯が新しい家を作るってよー!宿題ができて、テレビがあって、◯◯があって、、、このお決まりのシーンが最後に入る時に、赤服の子は、この台詞を叫びながら、画面の左奥へと道を走って、向こうへ行ってしまう。

どんな家がいいか?その問いは、想像力は、絵になり、言葉になり、着実に建設作業は進む。理想の家が具現化されようとする頃には、赤服の子の想像力は、そこに止まらず、次の何処かへ向かって走り出しているのか?

特に建設中の「青い家」が気に入らないというのでも無さそうだ。しかし想像力は止まらないのか?赤服の子は、嬉しそうに笑いながら、お決まりの台詞を叫びながら走って行ってしまった。

この映画は、中国の山間部「47KM 」と呼ばれる小さな村を舞台とした連作の最新作だ。村には老人と子供しか居らず、間の世代は出稼ぎにいっているそうだ。

子供達の中では一番の年長者、15歳くらいの子がハンディーカムを回し、赤服の子に質問をする。姉妹だろうか。赤服は、スマホでシューティングゲームをして遊ぶのにハマっている旨答える。質問を少し変えるが、シューティングゲームの話をする。15歳くらいの子は「ダメだ」と質問を止めたんだったかな、記憶が曖昧だ。シューティングゲーム/ゲームを控えるように叱ったりするシーンは無いが、余り良く思ってないようだ。

赤服の子にとっては、テレビを観たりスマホでゲームをしたりするのと同じように、宿題をすることも楽しみなのだ。15歳くらいの子は、未だここまでしか終わってないけど、、と宿題を見せるシーンがある、頑張りやさんなのかもしれない。

15歳くらいの子が玄関の柱に寄りかかって立った姿勢で自分で撮った映像を確認している、楽しそうだ。赤服の子が私にも見せてと15歳くらいの子の裾を引っ張るが、15歳くらいの子は意地悪な風を装うわけでもなく、楽しそうに夢中な表情のまま、構わない。赤服の子もそれで機嫌を損ねるでもなく、私も見たい!という以外の表情を見せないまま、部屋の奥から椅子をよいしょよいしょと持ってきて、椅子の上に乗りカメラを覗き込むが、それでも高さが足りなかったのかな?しかし直ぐ次のシーンでは、そのカメラを赤服の子が独占して撮影したりしていて、特に、15歳くらいの子が意地悪してたわけでもないのが分かる。そして、自分の身体と比べると中々大きな椅子を持ってきて、駄々をこねずに能動的に工夫して目的達成を目指す赤服の子は、少し格好良く見えた。

15歳くらいの子がカメラを回しながら、赤服の子に「あなたは、私の分のご飯を食べた」と責めるシーンがある。「でも、ちょっと残したよ、、」という赤服の子の応答が面白い。同じやり取りを二回くらいは繰り返していたが、この間の15歳くらいの子が回しているカメラからの素材は使われていない、その素材を使えば、無駄にこのシーンの暴力性が増強されてしまうんじゃないだろうか?と想像出来る。このシーンは、第三の視点からの、恐らく、章夢奇(ジャン・モンチー)監督が回しているガメラからの素材が使われている。確か、赤服の子は暗いところにいて全く見えなくて、15歳くらいの子も顔は隠れて背中だけが見えていて、二人の声が聞こえる、気に入りのシーンだ。

椅子にカメラを置いて調整したのだろうか、固定カメラの前で赤服の子が同じ歳くらいの子と二人で踊るシーンがある、上手い。所謂小さい子供の為の振り付けという感じではない、ダンサーの為の振り付けだ。章夢奇(ジャン・モンチー)監督は振付家でもある。恐らく、章夢奇(ジャン・モンチー)監督が教えた振付なのだろう、可愛い。

そういえば、中国の学校で子供達と一緒にヒップでホップなダンスをガイドしながら踊る教師のキレッキレな動きで話題になった動画があった。

章夢奇(ジャン・モンチー)監督も加わり、10歳くらいの子も加わり、15歳くらいの子と赤服の子と四人で、固定カメラの前でポーズを取る。各々独立しても面白く、四人合わせても面白いポーズになる。五秒位すると次の別のフォーメーションで別のポーズを取る。TikTokにも似た面白みがあるのかもしれない。

TikTokのような用意された形式の中で遊び始めて、それに飽きた子供達が、皆でわいわいもしつつ独りの時間を持ちはじめて、それでも回りの子供達に苛められることもなく、独りの時間と皆でわいわいの時間とを行ったり来たりしながら、短い動画を複数繋ぎ合わせて、何か物語が立ち上がるか否か、自作の詩でも有名な詩でも絵本でも読み上げた音声を重ねたり、時に静止画で、写真や絵などが挟まったり、という遊びを始めるのを想像してみた。どんな作品を作るだろう?まあ、独り切りになったとしても、それはそれで、過去の偉大な思想家や様々な学問と対話を試みるなら、人一人の一生分ではとても足りない膨大なエネルギーが拡がっている。

15歳くらいの子が、カメラがぶれないように動きながら撮る為の所作を10歳くらいの子に伝授するシーンがある。否、ただ伝授するのではなく、途中からは、章夢奇(ジャン・モンチー)監督が考案した振付が人力スタビライザー的な所作の習得にもなるような感じかしら?という、二人の舞いのシーンとなっている。子供達も色々と能動的に遊ぶので、何処から何処までが章夢奇(ジャン・モンチー)監督のアイディアなのか、鑑賞者からは判断が出来ない。そんな判断は要らないのかもしれない。

15歳くらいの子がスマホでジョン&ヨーコ・レノンの『イマジン』を再生しながら、ジョンの声に会わせて少し遅れながら追いかけて歌う。10歳くらいの子ともう一人は誰だったかな、その内の一人が合いの手を入れるように『イマジン』の歌詞に突っ込みを入れる、そんな世界ないだろ!と。『イマジン』に合わせて三人の子は、四人だったかな?手を繋ぎ、マティスの《ダンス》のように踊る、ゆっくりとした動きだ、スロー再生ではない。

また、ほんの一瞬の断片的な記憶だけど、印象的だったのは、5歳に満たない子が、好きなアニメの歌や童謡でも歌うようにして、歌ってるのに付いた字幕を読むと大人の恋の歌で、老人達が歌ってるのを真似て覚えたのか?そんなテレビ番組が?否、老人が
恋の歌をってのもいいな、と思った。

また、老人が葉物の野菜をざるに入れて川の水で洗うのだが、水から上げて、そのままざるを水平に保とうとはせずに脱力してざるが斜めになって、水に濡れた葉物がピタリとざるに張り付いて落ちないのを分かった角度で持ち帰るシーンが印象的だった。

章夢奇(ジャン・モンチー)監督と、10歳くらいの子だったかな?ベッドの上で電球の連なった装飾に絡まって、オルゴールで遊ぶシーンがある。何で音が出るの?何で違う高さの音が出るの?初めてオルゴールを見た時の感動を捉えている。10歳くらいの子がオルゴールを鳴らすと章夢奇(ジャン・モンチー)監督がおどけて動く、鳴らすのを止めると章夢奇(ジャン・モンチー)監督も動きを止める、遊びだ。

15歳くらいの子がカメラを回しながら、自分の部屋のお気に入りを紹介するシーンがある。別のカメラから15歳くらいの子を捉えた素材も使われていたかな?殆どは、本人が回しているカメラからの素材だ。

◯◯と一緒に買ったシール、棚に貼ってある。窓、縦に二列で長く全部で十二枚くらいだろうか、硝子は割れてしまってあと四枚しかないけど。天井の電球は、太陽のようで、私を温めてくれる。

この映画を一緒に観た友人が言った、あの歳で「足る」を知っている、と。物質的に豊かなところからこの映画を観て、お涙頂戴とか、同情を誘うような感じには成り難いと思う。「47KM 」と呼ばれる、この村に足りないものは何か?見付けられないんじゃないかな?むしろ、物質的に豊かな今の自分の生活の中に足りないものなら、幾らでも読み上げ続けることが出来るんじゃないかしら?足りないものは、Amazonの欲しいものリストで管理出来るのか?否、Amazonでは売っていないものは?お金と交換出来ないものは?足りてる?

禁欲主義でもない、懐古主義でもない。

赤服の子も、理想の家「青い家」が建ったりスマホのシューティングゲームに夢中になったりビデオカメラで遊んだりしても、15歳くらいの子の分のご飯を食べちゃっても、少し残して、質の高さや量を求めるのとは違う欲望を、否、欲望ではなく違う呼び方をしたいが、他者と比べて欲しくなるようなのとは違う、自己目的的な欲望を知っている。社会システムや先輩や親から与えられた足るを知らぬ欲望ではなく、過去や未来に「今」を置き去りにしない欲望だ、きっと。


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