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宮森みどり個展『Anna』について

今回この展示を体験しなかった方は、いずれ再演される時に是非!と思うので、お読みにならない方が良いかもしれない感想文です、悪しからず。





顔はめパネルの顔枠は、私の顔には少し小さくて、枠からはみ出た私(の顔)、中に入れない、疎外された私(の顔)は、「場違いな」「とらえどころのない」を意味するギリシャ語「atopia」を迂回したのか?そもそも顔はめパネルに顔を入れるのは何だか屈辱的で、例えば、広い展示会場の一角だけ靴を脱いでお入り下さい?とあれば、私の靴下だぞ、穴が空いているに決まっているじゃないか!穴が空いていなければ、きっと臭いはずだ!その展示を観る前から作家への期待が靴を脱ぐストレスを越えない限りは、この手の、現代アートの指示を出してくる表現全般に不快感を抱き、図々しい奴だなぁと思い、なるべく避けてきた私なのに。。

そんなこんなの行ったり来たりを頭の中でさささっと済ませながら、顔をはめた状態で、外の往来する人々の視線が気になるのに気付くわけです。こちらとしては、何見てんだこにゃーろーと遣るくらいなら顔をはめないし、詰まり、はめるかはめないかは選択可能なわけで、見られて不快と感じるわけもなく、私の中に僅かでも忍ぶ「爽やかさ」という名のエッセンスを大至急で捜索しました、「優しさ」とかだろうか、どんな顔をしていたのか見当つかないが、目配せしました、アナタも寄ってかないかい?展示だよ?怪しくないよ?とか、そんな表情を作ろうとしていたのだと思います、あ、、、完全にこちらに気付いている雰囲気なのに、全力でこちらには気付かない設定で、こちらに目を合わせまいと自転車をこぐお子様連れのお方、、、こちらを覗き込む方々が微笑ましいわね、というお顔で覗いてくださっていたのが救いで、本当か?少なくとも私にはそう思えたことが大事で、顔はめコーナーの鑑賞を終えた頃に、あ、顔はめてる時に私の前を通り過ぎた方?が会場にいらっしゃった。何故か嬉しい、ありゃ何だ?と通り過ぎた後でググって、戻ってきたのだろうか?と勝手な憶測をして、私の顔はめっぷりも、怪しさを何とか誤魔化せてたのか?と、図々しくも満足してみた。見られて、目配せして、たまに見て見ぬふりされて、でも、これくらいなら楽しいかもしれない?と思うのもいい。そして、これが毎日四六時中なら?何してる時も、誰といる時も、芸能人か?否、過干渉か、生政治か、鬱陶しい、ほっといてくれ、顔はめパネルに顔をはめたまま、パネルごと田端駅までうろうろ徘徊するような想像もしてみる。

さて、インタビューの内容について触れることには抵抗があるが、山勘で、可能な限り少しだけ、まず、「友達」の定義を満たすことがそんなにハードル高くなってるの?実際の文言は「アンナを救えるのか?」とかだったと思うけど、私には「友達は友達を命懸けで助けたり、、」というくらいのニュアンスに聞こえた、勘違いかもしれないが、しかしアンナを救えなきゃ友達とは言えないという、その定義はどうやって形成されたんだろ?

私的には、もう何年も会ってないけど友達、もう会うことはないけど友達、会ったことないけど友達、私が生まれるずっと前に死んでるけど友達、とかもある。

ずっと昔に何話か観たことあるだけだが、アニメ『ONE PIECE』とかの影響だろうか?私の思春期には、いじめをテーマにしたテレビ・ドラマが多かったし、当時は、今みたいにYouTubeとかネット配信も無かったので、かなり多くの人々がテレビを観てたのね、サイモン&ガーファンクルの歌が流れるKinKi Kidsが主演で加勢大周が怖い先生役を演じるドラマでも、いじめられっこが主役で、いじめっこの主犯核は、だいたい元々はいじめられっこの親友的な仲良しだった、的な筋立てが多かった印象だ。

また、ドラゴンボールでは、敵同士だったのが更なる巨大な敵と立ち向かうために、それを共通の敵としてかつての敵同士が協力して、敵だった相手(ピッコロさん)が自分(孫悟空)の子供に戦闘教育をしたり、ベジータとブルマとの間に子供が出来たり、それでも理由なく問答無用で仲間って感じでもなく、しかし孫同士は仲良しだったり、うーん、ポケモンとかは全く知らないし、まさか、走れメロスが教育したわけでもあるまいし、ONE PIECEもほんの一部しか観たことないから、見当が付かない。

うーん、スマホとSNS の普及によって、対人関係のすべては、可変性と可塑性とが急激に高められ、オンラインでの離散的なデジタル的な関係は、オフラインでの連続的でアナログ的であったはずの関係にも強く影響を与えている。

たった一つの争点(接点)で、敵味方/好き嫌い/正義と悪等々に分類されて、その対立が、時間をかけて蓄積されていたはずの連続的であったはずの対人関係すら一瞬で変えてしまいかねない、例えば、第三者が真実を知り得ない状況だが、判断材料もないが、今、アイツを否定しないとアイツを擁護したことになる、疑わしきは排除だ!自分までアイツのような人間だと思われてしまったら大変だ?自分さえ良ければいいって訳じゃない、世の中のためだ、わかった、露骨にアイツを攻め立てはしないが、アイツとは距離を取ろう、無視じゃない、アイツから連絡してくれば応答するさ、、こんな時にアイツから連絡出来るのか?や、困った時にアイツから私に連絡が来るほどの信頼関係は無いだろ、、、等々。

可変性と可塑性の急激な高まりとは、例えば、花を描いた絵画に絵の具が一滴跳び跳ねて、絵画としてのコンポジションや価値が変わったとしても花の絵画であることまでは変わらない、しかし、0,1のデジタルで描かれた画像のデータの一つの0が1に書き換えられたら、その位置によっては、画像全体(システム)の具合が大きく変わるかもしれない?て、的確な例えになっているかどうか、デジタル画像の成り立ちについて疎いのに、失礼。。

さて、このように対人関係に於ける可変性と可塑性が急激に高まったことによって、対人関係のすべてが0, 1の離散的な白黒思考的な性質を強めている中で、友達か否かが、敵か味方かくらいの意味を持ったということなのだろうか?謎だ、分からない。

しかし私は、関係性を形容することが苦手で、名付けることを成るべく避けてきたし、その形容詞に干渉されることに苛立ちを感じてきた。そんな時に、Facebookというのが流行り初めて、私も利用し始めたら、一度しか会ったことない人でも、「Facebook友達」として繋がるのである、これは、もう「友達」という言葉が解体された、関係性を形容することから多少解放された、と思った。だから、私は、このFacebookの野暮ったさがお気に入りなのだ。しかし今の若い人はもうFacebookやってる人少ないよね、InstagramとかLINE とかその他のは、フォローとかそんな言い方なのかな?

さて、この展示を観た翌日にたまたま『木皿泉~しあわせのカタチ~』というドキュメンタリー映画を観た、この映画をアンナが観たらどう思うだろ?とか思うもので、特に、展示会場でアンナに出会ったという印象は抱かなかったが、これは、出会っていたのかもしれないね。そして、この映画のブックレットの中で話題に出た、ダニエル・L・エヴェレット著『ピダハン』もこの作品に深く関係しているように思えて、図書館でぺらぺらめくってみた、面白い、そして、最近参加している読書会の課題図書であるW.ブランケンブルク著『自明性の喪失』もこの作品に深く関係しているように思え、『自明性の喪失』及び精神医学と『ピダハン』も深く関係しているようで、まだ時間をかけなければならないが、あ、斎籐環の『オープンダイアローグがひらく精神医療』P. 160~の坂口恭平『家族の哲学』について引用している箇所もこの作品に深く関係しているように思えた、繋がる広がる切り離されて忘却されるものは、何か。。

待てよ、私が「この映画をアンナが観たら、、」と思ったのは、あの展示で目安を付けた、幾つか仮止めした、アンナ的属性に向けた意識では?

そして、鑑賞者が居なくてもアンナを演じ続ける俳優は、俳優魂(?)から疎外されていたのか?

「読む派」の存在を思い出した。

読む派は、音読とは何か?を思考する、劇作家と俳優と小説家の三人から始まった、ユニークな派閥だ。音読は、独白(モノローグ)や朗読とも違う、しかも、音読を人前で行うというのだから、そんなことが可能なのか?あるいは、演劇に於いて音読をやってのける積もりなのてはないか?既に実施しているのか?未だ「読む派」のイベントには二度しか参加していないが、頗る面白かった。

さて、鑑賞者とは絶対に目線を合わせない、鑑賞者の呼び掛けに応答しない俳優は、何かから疎外されているのか?目線を合わして貰えない鑑賞者こそ、俳優/展示/アート、何かから疎外されているのか?

そうだ、ここにブーバーの句を並べたい。

「私には要求する資格も権限もない。私はただ、或ることが存在するという事実を語ろうとこころみ、それがどのようなものかを暗示しようとこころみているだけだ。私は報告しているのである。そしてそもそもわれわれは、どうして対話的なものを要求することができようか?対話は命令されるものではない。応答はなされるべき義務ではなくて、なされ得ることなのだ。」(『対話』より)___ マルティン・ブーバー著『我と汝・対話』田口義弘 訳の裏表紙より

斉藤有吾


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