山城知佳子監督作品:『チンビン・ウェスタン「家族の表象」』について/斉藤有吾

男女の夫婦と男女の子供二人と四人家族。子供達は、小学校に上がったくらいの年齢だろうか?DV だ、、、しかし物理的暴力のシーンは無い、父親が大きな声を出すが、怒鳴り声ではなく、オペラの発声法で歌うのだ。顔の表情は怖い、怒っている演技なのだが、いい声で歌っている。怖いけどいい声だけど怖いけど歌ってる、と迂回させられたからか、反射的に感ずる怖さは小さい。

「お父さんのお仕事は山を削って海を埋め立てること」と子供が言った、それは禁句だと母親は娘の口を塞ぐように抱き締めて守るような仕草をする。しかし父親は自らの仕事に罪悪感を抱いているという設定なのだろう、その罪悪感は、これを咎めたわけでもなく、只事実を述べただけかもしれない娘に、咎められた気がして、咎める相手がこの不快感を生み出す元凶なのだというすり替えの解釈、逃避から、敵と判断した娘を攻撃しようとする、しかしその攻撃は、いい声で歌うことだ。母親も沖縄の言葉で歌い、庇う。

長らくこの地から離れていた者が久々に帰ったら、山が削られ、変わり果てた故郷に怒りを示す。金のためには仕方なしと埋め立てに賛成する者が、お前みたいにこの土地を離れていた者が急に帰って来て何を無責任なことをいうか!と争う。本当に、争点は、これでいいのだろうか?

この二人の争いは古典的な感じの沖縄の言葉で行われ、衣装も古典的なものだ。東京弁と似たところもあり、字幕無しでも、何となく理解できる箇所がある。

電気仕掛けのダンス・ミュージックが流れ、争う二人の間に舞踏家が踊りながら現れる。争っていた二人は唖然として、踊りを観て固まる、争いが止む、一時的なのかもしれないが。舞踏家は、二人の存在を知覚していないかのように、辺りに目もくれず、音楽に合わせて、踊る。

これは、戦争映画だ。人が人を殺すシーンの無い、戦争映画だ、そう思った。
 
さて、西部劇に触発されて作られたイタリアの西部劇、マカロニ・ウェスタンをモティーフにして本作品のタイトルは『チンビン・ウェスタン』となっているそうだ。私は映画通ではなく西部劇通でもないが、西部劇といえば、正義と悪とをはっきりと分けて描いた戦争映画だという認識がある。勿論、すべての西部劇がそういう構造だと思い込んでいるわけではない。しかし私は、正義と悪とをはっきりとわけて描いた戦争映画こそが、戦争賛美的効果を持ち得る映画なのては?と考えている。

悪い人、怖い人、暴力的、差別的なシーンを排除した戦争映画が可能なのかはわからないが、暴力的なシーンを排除した、良い人?優しい人?正しい人?しか出てこない戦争映画こそが理想的な戦争反対の平和のための映画なのだとは思わない。そんな戦争映画が可能なら、怖い、不気味な映画だろうと思うが、観てみたい。しかし、警戒心を強めて観ることになるだろう。

例えば、北野武監督が云う、人を殺すシーンは徹底的に痛そうに撮る、痛みを知らせることが暴力に抗する表現なのだという旨に共感できる。また、戦争反対の為に悲惨な写真や動画をシェアする行為にも共感出来る。しかし、写真や動画で血を見ることが困難な知人もいるのだ。しかし、戦争の悲惨な写真をシェアするな!とか、北野武監督の映画を否定しろ!とは、全く思わない。ただ、人が人を殺さない戦争映画も必要だ。

『チンビン・ウェスタン』は、人が人を殺すシーンの無い、ちゃんと悩ましい、色々と考えさせられる、戦争映画だ。

そうだ、私は未だちんびんを食べたことがない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?