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〔177〕世界史に生じた「襞」を延ばした時にWWⅡ時代は終わる 修文5/20

〔177〕世界史に生じた「襞」を延ばした時にポストWWⅡが終わる
 ここのところ迂回してばかりですから、退屈なされた諸兄姉もおられると思い、〔177〕では本論に戻り、結論を目指します。
 日米最終戦争を昭和四十五(1970)年ころと予測していた参本第一部長石原莞爾少将は、昭和十二(1937)年九月に関東軍参謀副長を拝命して満洲に赴任します。
昭和六(1931)年に勃発した「満州事変」の首謀者として知られる石原莞爾が任地の満州で観たのは、法律を翳して威張り散らす日本人官僚と、黙々と之に追従しながらハラを見せない圧倒的多数の在満漢族たちです。
つまり石原莞爾が満洲の将来として描いた青写真の「五族協和」は、掛け声しか存在しないのです。満・日・蒙・漢・鮮の五族が互いに優劣なく自治共同することは石原個人の理想であって、現実の満洲は在満の漢族と日本人ほか少数民族が生存競争する場でしかなく、統治と治安維持に当たっていたのが関東軍と満鉄と日本人官僚です。
 落合が遺憾に思うのは、石原が日本人と漢族を隔てる「文化の壁」を軽視しすぎたことです。あの石原莞爾にして漢族の本性を見誤り、日本人と漢族を「同じアジアの肌色なのだから一丸となれる」と思い込んだのです。

 「周蔵手記」昭和十二(1937年七月末条を以下に引用しますから、石原莞爾が胸底を語った言葉を、諸兄姉はよく吟味してください。巷間に溢れる史学者・評論家がいかに見当外れをしゃべっているか、ハッキリわかりますからね。


 「吉薗周蔵手記」昭和十二年七月末条(原文のカタカナ・旧仮名遣いを落合が平仮名・新仮名遣いに変換しました)
 盧溝橋事件の事を シッカリと知ったのは、7月末 石原(陸軍少将・参謀本部第一部長)さんからだった。「たまには理由をつけておいで」と言われているから、新聞で知って、話を聞きたいと思って訪ねた。
 もっと早く訪ねたかったが、今年の罌粟は全体に悪く早いうちに採れないため、収穫を花の後にしたのである。そのために7月は忙しく、巻さん(周蔵夫人)方に任せるだけにはできなかった。

 小菅村(山梨県北都留郡)は西瓜がよくできるから、西瓜を持って訪ねた。
△全てにおいて事態が悪化し、小林(宮崎県西諸県郡小林町)からは何も届かなくなってきている。届いてくるのは薩摩ガスリの生地だけである。よって小菅村で作る西瓜を牧野先生(牧野三尹医師)はじめ熊谷さん(熊谷守一画伯)等に届ける。ただし熊谷さんは、最近はだいぶん生活が楽なようであるから、西瓜だけで十分なようだ。
 石原さんに西瓜を届けながら、耳にしたる事は、盧溝橋事件がまず誤りである事。次に東条(陸軍中将・関東軍参謀長)が指揮を取る以上、望みはない、という事である。
 自分は言うべき事は言い、主張するべき事は、東条と刺し違えても主張するし、これからもそうするつもりだが、もう東条に傾いておるとの事。流れがそうだとの事。誤る時はそういうものだと石原さんは言われた(続く)。

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