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〔173〕三峡ダムと太陽光パネル

〔173〕三峡ダムに対抗する中国の「秘策」―「太陽光パネル」
 〔172〕のタイトルが紛らわしかったようです。「世界史の進行を三十年遅らせた?」という章句で前文は終り、その後に「一の國體秘策」という語が続くのですが、そのようには読めない、「一の國體秘策」が「世界史の進行を遅らせた」と読める、とのご指摘がありました。
 尤もなご指摘ですが、実はここにいたる事情があります。日米最終戦の実行が石原莞爾の予測より「三十年早まった謎」を探る落合の脳裏に突然閃いたのが、【「一の國體秘策」は、この早まった三十年を調整するために國體参謀が建てたものではないか?】という考えです。
 原因が「地軸の傾き」にせよ、あるいは「DS参謀の深謀」にせよ、時間軸上の歴史進行が異常に早まり、日米戦争が石原莞爾の想定よりも三十年早く始まってしまったのではないのか?
 この考えが深く脳裏に突き刺さった落合は〔172〕のタイトルをあのような中途半端なものにしてしまいました。「三十年遅らせた」とは「時間軸を石原の想定していたものに合わせた」という意味です。
 砕いていえば、三十年遅れていた日支間(ポストWWⅡでは「日中間」です)の協調を本格的に始めるために國體参謀が建てたのが「一の國體秘策」なのです。
 日米戦争が始まった昭和十六(1941)年12月8日から三十一年経た昭和四十七(1972)年9月25日に日中国交回復が実現します。もともとこの三十年間に日支の同盟が進展して大東亜同盟が完成することを予定していた石原莞爾も昭和十二(1937)年ころから次第に日支の関係を危ぶみ始めます。
 満洲事変の成功に日本の軍民が酔い痴れた、などと左傾史家は説明しますが、そのような浅薄な思考では石原の読み違いの原因を理解することはできません。
 石原の誤解の原因探究はしばらく措くとして、ここで銘記すべき重要事は、このころ四十歳前後の周恩来が國體参謀として中国共産党の中心となったことです。WWⅡ後の「国共内戦」を勝ち抜いた周恩来は、昭和二十四(1949)年の中華人民共和国の建国で国務院総理に就任し、以後逝去するまでその地位にありました。
 国務院総理として日中国交回復の主役となった周恩来は、七年後の昭和五十一(1976)年に他界しますが、落合は偽装死を疑っています(根拠はすでに述べたので茲は省略します)。
 石原莞爾は昭和二十四(1949)年八月十五日に膀胱癌により薨去した、とされていますが、実は計画的な偽装死で、その後はタイに赴いたことを、落合は國體秘事伝授により聞き及んでいます。
 タイに住んだ石原莞爾は、山下奉文(マッカーサーの計らいでフィリピンで偽装処刑)を仰ぎ、甘粕正彦(終戦時に奉天で偽装死)と組んで旧帝国陸軍の主流を復元します。後日、これに加わるのが辻政信(昭和三十六年にラオスで行方不明)です。

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