見出し画像

〔171〕中国経済を狂わせた土地本位制

〔171〕中国経済を狂わせた「土地本位制」
 落合はポストWWⅡ時代を三期に分け、前期を「ブレトンウッズ時代」、中期を「ペテロダラー」時代、晩期を「ドルペッグ人民元」の時代と呼んでいます。前二者についてはすでに語り尽くしたと思いますので、これからWWⅡの晩期すなわち「ドルペッグ人民元」時代について総括したいと思います。
 ポストWWⅡ期が晩期に突入した時点を、落合は平成七(1995)年と観ております。この年は実に多事な年でしたが、落合が今も忘れないのは「大蔵省国際金融局長榊原英資が円高阻止のために猛烈な介入を行った」ことです。現下の日本は「円安」がどこまで進むかが判らず、今秋には必ず到来する輸入インフレの予感に慄いていますが、その原点は実にこの日と落合は観ております。
 話を「一の國體秘策」に戻しますと、政治的余生を之に掛けた竹下登に対して中国側でも応じた政治家たちが存在したのです。彼らが中国共産党政体の枢要部を占めていたのは当然ですが、本来は「國體天皇府」傘下の人材たちで、幼少時から中国共産党に潜入し、次第にその地位を固めてきたので、いわば「在中國體参謀」とも呼ぶべき人傑たちです。
 その一人の李鵬のことは前述しましたが、彼の養父周恩来は國體天皇府の参謀衆の中でも最重要人物で、その来歴は拙著『ワンワールド特務・周恩来の日本偵察』に詳述しましたからここでは割愛しますが、一言付け加えれば、その妻(李鵬の養母)の鄧頴超をこれまで軽視していたのは落合の犯した重大な誤りです。
 周恩来と妻鄧頴超の出会いは周恩来が天津南開大学にいた時で、学生運動を通じて知り合ったとされています。由来政治関与を避けていた鄧頴超は、毛沢東が瀕死の中で中国政界を牛耳り、周恩来らを激しく攻撃するた江青ら「四人組」との対立を避けていましたが、昭和五十一(1976)年一月に膀胱癌で他界した周恩来を追うように同年九月に毛沢東が亡くなった後も中国政界を支配していた「四人組」が華国鋒により倒されると、昭和五十三71978)年三月に全人代常務委員会副委員長に就きます。
 これをきっかけに党内で昇進を重ねた鄧頴超は、政治協商委員会主席を最後に第一線から引退しますが、平成元(1989)年六月の「六四天安門事件」では〔八大元老〕の一員として、趙紫陽総書記の解任、戒厳令の発布、後任総書記の人選に関する密談に参加しています。
 昭和五十一(1976)年一月八日に亡くなった周恩来が、他の中国要人に比べてあまりにも短命なことに落合が疑念を抱くことです。そこで、毛沢東を筆頭に同時代の(国民党を含めた)中国要人の寿命を並べて見ますと、短命さで周恩来に並ぶのは心筋梗塞七十五歳で急死した胡耀邦だけです。

 文化大革命から復帰後の鄧小平を胡耀邦とともに支えた趙紫陽も鄧小平との路線対立により七十二歳で現役を追われ逝去迄の十五年を軟禁されましたが、この両名の異例な命運は「鄧小平との関係」を除いては考えにくいことです。さらには、昨年秋に七十歳で急死した李克強ついても死因は心臓発作とされていますが暗殺説が流れています。

 ここで諸兄姉の理解のために〔170〕に掲げた下の表を再掲します。(落合は数え年を用います)
 
 蒋介石1887生、89歳卒。 国民党総統 
 毛沢東1893生、84歳卒。 
 呉滌愆1894生、95歳卒。 天津南開三羽鴉
 張学良幕僚。
 王希天1986生 90歳台卒。天津南開三羽鴉 関東大震災時に偽装死
 周恩来1898生、79歳卒。 天津南開三羽鴉 西安事変首謀者 
 張学良1901生、101歳卒。天津南開同志 西安事変首謀者
〇彭震 1902生、96歳卒。
〇鄧小平1904生、94歳卒。
〇鄧頴超1904年、89歳卒  周恩来未亡人
〇陳運 1905生、91歳卒。
〇楊尚昆1907生、92歳卒。
〇薄一波1908生、100歳卒。
〇王震 1908生、86歳卒。
〇李先念1909生、94歳。
△宋任窮1909生、95歳卒。
△習仲勲1913生、90歳。
 胡耀邦1915生、75歳卒。 山崎豊子に国家機密を暴露して失脚
△習仲勲1913生、90歳卒。

△万里 1916生、100歳卒。
 趙紫陽1919生、87歳卒。 ゴルバチョフに国家機密を暴露して軟禁 
 華國鋒1921生、88歳卒。
 ――――――――――――――――――――――――――――
 江沢民1926生、97歳卒。
 李鵬 1928年生、92歳卒。   
 朱鎔基1928年生、97歳生存。
―――――――――――――――――――――――――――――
習近平1953年生、2012年共産党総書記就任
李克強1955年生、2013~2023国務院総理 2023年69歳卒・暗殺説
 
〇印はいわゆる「八大元老」で、△は鄧頴超・王震・李先念と入れ替わって入った新参です。八大元老」とは昭和五十七(1982)年設立の「共産党中央顧問委員会」に属した党の古参幹部で、表向き引退していたものの、中国共産党の最高指導部たる「中央政治局常務委員会」を凌ぐ権威を有し重要事項の決定権を握っていた八人衆のことです。
 趙紫陽が平成元(1989)年に党総書記を解任された理由として「天安門事件の強硬処置」の外に挙げられるのが、ソ連共産党書記長ゴルバチョフに「鄧小平が最終決定権を持つ」という「国家機密」を明かしたことですが、鄧小平を支えながら後に対立し、平成元(1989)年に心筋梗塞で急死した胡耀邦も、山崎豊子にこの「国家機密」を明かしたことが失脚(急死?)の原因と落合は耳にしました。
 ともかく趙紫陽の解任とその後任に江沢民を宛てた人事は八大元老が決定したのです。中国共産党中央顧問委員会が平成四(1992)に廃止され、最高実力者鄧小平が平成九(1997)年に逝去すると元老たちの影響力は低下しましたが、この時期の日本は、政界を表向き引退した竹下登が「竹下七奉行」を使って「一の國體秘策」を進めていた時期ですから、日中の政治年表がおのずから同期しているのです。
この時期の中国経済を掌握していたのは大明帝国の太祖朱元璋の直系子孫の朱鎔基で、右の表で唯一の現存人物です。
その経歴は〔167〕で詳述したのでここでは割愛しますが、〔167〕で「李鵬のライバルを江沢民」と述べた落合が、ここでは「李鵬のライバルは朱鎔基」との見解に立つのは、この三名の関係を『正三角形』とみているからです。

ここから先は

4,581字

¥ 500

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。