あっち行ってこっち行って落っこちて

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 夏目漱石の草枕の冒頭。あまりに有名すぎて語るには及ばないが、この一節、たまに思い出してはつくづく納得する。

 智と情と意地。漱石のこの一文は、「住みにくさ」から終わるからして、3つそれぞれに「他人」という存在ありきで独白している。人間関係というのは、何を考えても、何も思っても、何を言っても、結局のところちゃんと分かり合えることはできない。分かり合えない以上、人の言動とか見た目とか態度とか雰囲気とか、その人がどういう人かというものを一定程度「断定」する必要がある。それが本心でないにしても。その判断を持ってして、「周りから見られる自分」というのは形づくられていく。だから他人というのは全然自分のことを理解してくれないし、理解しようともしない。なんて生きづらいんだろう。

 

 などなど、毎日の人間関係でいい加減疲れているとき、こんな風に思い巡らせて考えてしまう。古い言葉なので、今風に言い換えて考えれば分かりやすいかも知れない。こんな感じかな。

・智が働く → ジコチュー
・情に棹される → ミーハー
・意地を通とおせば窮屈 → ロジハラ

 こうすると、漱石の一文を少しは理解できたような気になる。あくまでその気になるだけだけども。さて十分納得はしたので、そればかりでは良くないので少しばかりケチをつけよう。

 そもそも、ある程度のワガママのない人間なんてこの世に存在しないと思うのは自分だけだけかな。人と人が関わり合う以上、仲良しこよしなんてできるわけがないし、意見を言わなきゃ動物と同じなわけで。たしかに漱石の一文は憎たらしいほどよく分かるし、深々と理解してさすが漱石さまととも思うけども、他人ばっか意識していたら何も前に進みませんよと。あっち行ってこっち行って、落っこちてもなお、人との関わり合いを諦めない、諦めたところで、最後は本当に生きづらさしか残らない気がする。



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