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相対的に賢い人の割合は変わらない

どこで読んだかは忘れましたが、

誰もが大学に行くようになったら、その国はもうおしまい

だそうです。

一般に信じられている「教育が十分に行き届けば、その国は発展する」とは真逆のようですが、でもこれ、数学的にきちんと証明できちゃうのです。

一つの集団内で、例えば全構成員の「身長」をグラフで表した場合、結果は必ず釣り鐘型の「正規分布」を描きます。
平均値となる中央部分が最も高く、特に背の高い人、背の低い人がグラフの端っこに数人ずつ、という具合に。

「知能の高さ」も同様で、やはり「普通の人々」が中央で高い山をつくり、極めて賢い人と愚かな人が、グラフの左右に散らばるようになります。
この「正規分布」は崩れることはないので、誰もが大学に行ったところで、釣り鐘型が崩れて右側に山が偏移するという

上図のようなことは起こりません。
単に釣り鐘全体が右に移動するだけ。

なので、大学を出ようが出まいが、「普通の人」はあくまで集団内では「普通の人」のままであり、決して「賢く」なったわけではありません。
つまり、「賢さ/頭の良さ」とは「絶対評価」ではなく、「相対評価」なのです。

ちなみに、知能指数(IQ)も、集団内での相対的なポジションを示す値にすぎません。それも、主に図形や数列などの規則性・法則性を見つけ出す能力に限定したものなので、単純に「=賢さ」とはなりません。

「頭の良さ」は、「記憶力」と「論理的思考力」を複合したものと考えられています。
この話をするとき、私の頭にはいつも

「学びて思わざれば即ち罔(くら)し

  思ひて学ばざればすなわち殆(あやう)し」

という論語の一説が浮かびます。

学びて(記憶し)、思う(思考する)ことが肝要である

と、まさに孔子の慧眼ですね。


さて、誰もが大学に行くようになると、大きな弊害が生じます。「大卒」の肩書を手に入れたことで、本来は「普通の人」が、自分を「賢い人」であると錯覚してしまうのです。
この錯覚が、さまざまな社会問題を引き起こす要因となります。

彼らは、自分を「賢い人」だと思い込んでいるので、進んでそれ以上の勉強はしません。大学に合格した時点あるいは卒業したで目的達成。そこで成長が止まってしまいます。
一方、グラフの右端に位置する「真に賢い人/知性のある人」は、知識を得ること自体に喜びを感じるので、さらにさまざまなことを吸収し、成長していきます。

ゆえに、正規分布の形は崩れず、平均値との距離が縮まらないというわけです。

自分を「賢い人」だと思い込んでいる「普通の人」は、そうしたより知性の高い人の話を聞きません。それどころか、「学歴」を盾にして、逆にマウントを取ろうとする始末。
自分たちのプライドに傷をつけかねない「真に賢い人」を社会から排除・抹殺しようと躍起になっています。

悲しいかな、これが現在の日本の状況です。

「パンデミックもどき」をいつまでも引きずっているのは、「大学を出た」というそれだけのことで、自分を「賢い人」だと錯覚した連中が依然として足を引っ張り続けているから。なぜなら、大学を出たおかげで、彼らの多くがメディアや役人、あるいは医師会幹部などの地位に就いているからです。

どうやら、記事の冒頭に掲げた

誰もが大学に行くようになったら、その国はもうおしまい

を証明することになりそうです。

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