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メンヘラコミュ症ホステスになる❊母について❊

ついでに母についても話したいと思います。

母は何を考えているのか、何も考えていないのか、単に語彙力があまりないのか、口数がとても少なかった。

自分の学生時代の友人の前では、喜怒哀楽の、喜や楽の感情を表にだしていたが、家族間では怒、哀が6割、あとの4割は「無」だった。

とにかくいつも口をへの字に曲げ、つまらなさそうな顔で、ボーッとテレビを観るか昼寝をしていた。

姉と私の世話も無表情で、義務なので、と言わんばかりに機械的にこなしていた。

とにかく面倒くさがりやで、専業主婦だったが料理をほとんどしなかった。
朝はバナナにマヨネーズをかけたものか(マヨネーズいらんやろ)、トーストにマーガリンをぬったもの。(バターナイフはマーガリンの容器に突っ込みっぱなし)
夕飯は近くに住む祖母(母方)がおかずを作ってくれるので、母は肉か魚を焼き、味噌汁を作るだけだった。
お母さんの作る好きな料理は?と聞かれると、茄子の味噌汁と答えていた。

自動車免許を持っていなかったので、平日はいっさい外出はしないが、化粧をしない日はなかった。
ピアス、ネックレス、指輪の貴金属は入浴中も寝る時も常につけっぱなしで、寝る前にはいつもカーラーで髪を巻いていた。
ズボンをほとんど持っておらず、いつもタイトなスカートにストッキングを履き、靴もヒールの高いものしか持っていなかった。


どうも母に愛されている自信のなかった私は、幼稚園の頃に、「なぜ私を生んだの?」と聞いたことがあった。
私は少しでも肯定的な、人生の明るい兆しになるような言葉を期待したが、母から返ってきた言葉は、「仕方なく生んだ。今のお父さんにだけ子どもを生まないのは可哀相でしょ?」

がびーーーーーん…………

薄々は愛されていないのでは?と感じていたけど、そっか、そうだよね………
その後のあらゆる母の行動に愛情の薄さを感じ、どんどん生きる自信をなくしていった。
思春期になる頃には、そんな理由で生んでほしくなかった、死にたい、とまで思うようになっていた。

成人して、親元を離れてから姉にこの話をした時、そんなのまだマシだよ、私なんて、生まなきゃよかったって言われたよ、と言っていた。

孫が生まれてからも、母は、私は子どもが嫌いだと自信満々に公言していた。


申し遅れたが、母はバツイチで再婚したのだ。

私には父親の違う兄が2人いる。

何の因縁か、母もまた幼い兄たちを父方の祖母にたくし、家を出ていた。
兄たちの父も祖母の元へ兄たちを残し、他の土地へ移り住み、そこで家族を作り暮らしていた。


兄たちも兄たちで、苦難の人生を歩んでいた。

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