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ガチメンヘラコミュ障がホステスになったお話。 実話を元に構成しています。 惨めで情けな…

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ガチメンヘラコミュ障がホステスになったお話。 実話を元に構成しています。 惨めで情けない私の半生をここで成仏させて下さい。 阿呆なので文章が拙く、読みづらいですが、加筆修正しながらコツコツ書いていきます。 フルタイムで働きながら子育て中なので、すきま時間に少しずつ投稿☆

最近の記事

メンヘラコミュ症ホステスになる❊私の恋愛観、というかほとんど元夫の話❊

私の恋愛観、ズバリ言うと、執着と束縛です。生まれてこの方、永遠にそんな不毛な恋愛を繰り返してきた。  学生時代こそ同世代の男子とルックス重視で交際をしていたが、二十歳を超えてからは水商売なこともあり、父親ほど歳の離れた人とばかりと付き合っていた。 そこには、いつも父親に肯定されたかった、受け入れられたかった、愛されたかったという気持ちが潜んでいたのではないかと思う。 完全に保護される関係でありたかった。  一人目の夫は15歳上だった。私と出会った当時は風俗のフロントを

    • メンヘラコミュ症ホステスになる❊初めてお金で体を差し出した日❊

      私は貪欲にお金が欲しかった。 お金で心の安心を得たくて、とにかくお金が欲しかった。 特に欲しいものがあるわけでもなく行きたいところもなかった。 でも私には何もなかったから、とにかくお金が欲しい、お金があれば…… きっと沢山のお金を稼いだら、その先に幸せで素敵な未来があると信じていた。 お客さんで久保さんという解体屋の社長がいた。 彼には奥さんと子どもがいたが、好奇心の強い少年がそのまま大人になったようなひとだった。 家が貧しくて食卓におかずが並ぶことがあまりなかった

      • メンヘラコミュ症ホステスになる❊初めてのお客さん❊

        3ヶ月経った頃、4流ホステスの私にも初めてのお客さんがついた。 寺尾聡似、身長157センチ、土木作業員の安倍さん。年齢は当時の私より20ほど上だったので40過ぎ。 安倍さんは3回目に店に来た時に店外デートを持ち掛けてきた。 初めて自分にできたお客さんだし、断り方もよく分からず、休日に食事をすることになった。 デート当日、黒いナイキのTシャツに黒のスラックス、黒革の(たぶん合皮)セカンドバッグを小脇に抱え、サングラスをして安倍さんは颯爽と登場した。まるでダフ屋のような風

        • メンヘラコミュ症ホステスになる❊慣れない出勤❊

          フォロワーも増えないし、いいねも付かないし書く気力を失っていましたが、不貞腐れてつぶやいた言葉に反応してくれた人がいたので、嬉しくなり、少し書く気力を取り戻せたので少しだけ続きを書きたいと思います。 いいね、してくれた3人の方ありがとう♥ 小雨がぱらつく肌寒い初春、自転車で傘をさして店へ向かった。 猥雑でゴミの散らばった通称おっぱい通り(おっぱいパブがたくさんある通り)を抜けると私の働いている店がある。 キャッチが廃止されていなかった当時「おっぱいおっぱい、おっぱいいか

        メンヘラコミュ症ホステスになる❊私の恋愛観、というかほとんど元夫の話❊

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          誰が読んでんねんと思うとなかなかモチベーションが上がらず、気分転換に久しぶりに東京へ行ってきました

          誰が読んでんねんと思うとなかなかモチベーションが上がらず、気分転換に久しぶりに東京へ行ってきました

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          メンヘラコミュ症ホステスになる❊お店の形態と給料について❊

          私が働いていたお店の形態は、セット料金五千円、フリーボトル、1時間後から延長料金1時間につき三千円がかかるという、独特なシステムの店だった。 指名も同伴もドリンクバックもなかった。 その代わり、1日1品以上はフードを頼めとママから言いつけられていた。 もちろんフードのバックもなし。 たまーに、シャンパンを卸してくれるお客さんもいたが、そちらの方のバックもなく、かと言って一生懸命シャンパンをねだれというでもなかった。 初めてのお店だったのでこんなもんなのかなーと思ってい

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊お店の形態と給料について❊

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊初出勤❊

          私が中学生の時から仲良しだった同級生は、専門学校に通いながらホステスをしていた。 その子のつてで、ホステスデビューをすることとなる店を紹介してもらった。 その店は繁華街にビルを所有するオーナー大ママが、何店舗か系列店を出していた。 オーナーママは、この店は水商売の登竜門って言われてる店で素人感を売りにしてるから、安心して働いて、と言われた。 でもそんなに甘くはなかった。 私の配属された店には、中卒で夜の蝶になったゴリゴリの大ベテランホステスお姉さん、ヤンキー上がりの岩

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊初出勤❊

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊整形手術その2❊

          整形手術から2ヶ月過ぎた頃、腫れもだいぶ治まりようやくマスク無しで外出できるようになった。 腫れが治まったらとびきりの美人になってるはずだったのだが…… うーん……… 顔面課金80万くらいではそこまでの偏差値アップは望めなかった。 でも、これ以上ローン組むわけにもいかないし、痛すぎてもう手術もしたくないし、この顔で夜の世界に挑むしかないか…… 心許なさを拭えぬまま初出勤の日を憂鬱な気持ちで待った。

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊整形手術その2❊

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊整形手術その1❊

          私の顔面偏差値は、自己評価ではあるが、中の中〜中の下。 中学時代から彼氏はいたし、それなりに告白もされたことはある。 なので、下ではないはず。 しかし、水商売をするにあたって、少し心許ない水準であることは否めない。 そうだ、整形しよう。 ネットの普及していない時代、地元の情報誌の一番後ろの頁にまとめて掲載されてる美容整形の広告をよくよく吟味した。 怖かったのでとりあえずアットホームな雰囲気の小さめの医院で目の二重整形をすることにした。メスを入れるのは抵抗があったので埋

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊整形手術その1❊

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊水商売をしようと思ったわけ❊

          我が家は特別裕福ではなかったが、お金に困ってはいなかった。 だけど、父と母はお金のことでよく喧嘩をしていた。 理由は分からないけど、父が何か怒鳴りながら母に一万円札を投げつけて家を出ていったのを子供の頃に見た。 大人の男が感情を爆発させ怒鳴るのはとても怖かった。 しばらく胸のドキドキが収まらなくて、誰かに抱きしめてなだめてもらいたかった。 母の顔を見ると、悲しそうな、でも勝ち誇ったような顔でその一万円札を財布にしまっていた。 お金がたくさんあればもっと仲良くできるのか

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊水商売をしようと思ったわけ❊

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊高校生編❊

          高校時代はバイトと彼氏一色だった。 初めて体を許した彼氏にいつしか心も許していた。(私は体を許してから心も許せるようになるタイプ) 男女関係によるトラブルなどで女友だちを信用できなくなり、休み時間、放課後、学校行事、隙あらば彼氏と一緒にいた。 休日は親にバレないようにどちらかの家にお泊りし、気がつけば四六時中一緒だった。 自分の分身のように思い片時も離れたくなかった。 その彼氏は16歳から別れるまでの5年間、私の生を支えてくれた。 親より私を肯定して受け入れてくれた

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊高校生編❊

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊中学生編❊

          中学生の頃は人生で3本の指に入る苦しい時期だった。 自己肯定や自信を1ミリも持たないのに自我だけが大きくなっていた。 食事、排泄、当たり前の全ての生命活動を恥ずかしく感じていて、その歪んだ思想が自分を苦しめた。 特に食べることに強い嫌悪があり、人前で食事をすることが排泄と同じくらい人に見られたくないことだった。 私は嘔吐恐怖症、会食恐怖症でもあった。 給食の時間が1日の学校生活の中でもっとも苦痛であった。 給食の時間が近づく4限あたりからソワソワと落ち着かなくなり、食堂

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊中学生編❊

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊小学生編❊

          人生に対する姿勢はいつも消極的なものだった。 今日1日、母の機嫌が悪くありませんように、姉に意地悪されませんように、学校で疎外感を感じませんように…… いつも何かに怯えていた。 小学校高学年に進級した時、クラスで自分のプロフィールを書いて壁に張り出すことになった。 そこには長所の欄があり、皆だいたい、明るい、絵が上手い、優しいなどと書いていた。 私は何も思い浮かばなかった。 明るいわけでも得意なことがあるわけでもなかった。 みんなと同じで明るいでいっか……… いや、で

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊小学生編❊

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊母について❊

          ついでに母についても話したいと思います。 母は何を考えているのか、何も考えていないのか、単に語彙力があまりないのか、口数がとても少なかった。 自分の学生時代の友人の前では、喜怒哀楽の、喜や楽の感情を表にだしていたが、家族間では怒、哀が6割、あとの4割は「無」だった。 とにかくいつも口をへの字に曲げ、つまらなさそうな顔で、ボーッとテレビを観るか昼寝をしていた。 姉と私の世話も無表情で、義務なので、と言わんばかりに機械的にこなしていた。 とにかく面倒くさがりやで、専業主

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊母について❊

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊父について❊

          父の生い立ちは複雑だった。 恐らくそのせいで、妻である母に強い執着をし、共依存の関係になっていたんだと思う。 ちょっと複雑なので仮名で話を進めていきます。 トメ(父の祖母)は割烹と芸者置屋を営んでいた。 明成(父の父)は単身赴任で、登美子(父の母)と正男(父)をトメの元に残し離れて暮らしていた。 乳飲み子の正男の世話をしながら、登美子はトメの店を手伝い、時に芸者として宴席にもあがっていた。 女手一つで店を切り盛りする、男勝りなトメに気を遣い、心休まる暇もなかった。 正

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊父について❊

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊幼少期❊

          幼少の私を一言で表すと、内向的で泣き虫な阿呆。 阿呆のくせに感受性は人一倍強く、人がスルーしそうな些細なことが心の琴線に引っかかってはよく泣いていた。 幼稚園の頃、母に、ちょっと出かけてくるからハチ公物語でも観て待ってなさいと言われ、最初こそ大人しく留守番していたが、物語が進むにつれ悲しくなりシクシク泣き出し、それにつられ、母さん遅くね??と不安になり、このまま一生会えないかもとパニックになり、ワンワン号泣し始めた。 ハチ公も気になるけど、母さんの帰宅も気になる。テレビ

          メンヘラコミュ症ホステスになる❊幼少期❊