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誰かのために生きなくていい

誰かのため、何かのために生きたいと
必死でその対象を探している。

探すというよりは
生きている、生かされている以上
そうしなければならないという
使命感にちかい。


なのに心の奥底ど真ん中では
「誰かのため、何かのためじゃなく
ただ自分のためだけに生きたい」と
強く叫んでいる。

これはいけないことだ。

なぜなら生かされている以上は
他者のために生きるべきであり、
何かの、誰かの役に立つことこそ
人としての喜びだからだ。



自分のためだけに生きるなんて
わがまますぎる。

世界は互いに寄り添い助け合い
誰かが誰かのために生きようとするから
成り立っているわけで、
ただ生きているだけじゃ不足なのだ。


そうだろ?
だからそんなにむなしくて堪らないんだよ。

誰かのため、何かのために生きれば
きっとまたこのむなしさは
消えてくれるはずなんだから。




誰かのため、何かのために生きる、
ということは、
”なんのために生きているか”という
不透明で正解のない問いの
答えになるから重宝されるのだろう。

でも
誰かの「ため」
何かの「ため」
「ため」になっているかどうかの判断は
誰がするのだろう。

自分?
相手のために行動して生まれた感動が
私の喜び?


行動の意味や理由を
誰かの喜び、という評価に直結させてしまうと

自分のメンタル次第で
相手の「ため」になってないかもしれないと
勘繰った瞬間
生きる理由がなくなっちゃうね。



逆に考えてみる。

私は
誰かが自分の「ため」なんかに
生きてほしくないなと思う。

私の存在なんか忘れるほど
自分のために生きて欲しいと思う。

私のことが足枷や
心の重荷になってどこにもいけなくなるなら
切り捨てて欲しいと思う。

同時に、そうしてくれた方が
私は私のために生きることができるので
せいせいする。

できればその思いを
自分自身にも向けてあげたい。


自分のためだけに生きていけるほど
人間は強くない、と言うが
別に強くなくていい。


あなたの「ため」
なにかの「ため」と
生きる意味や理由を
外側に求めた結果

自分や他人、
世界と争ったりするくらいなら
「今日は暖かいなぁ」
「ごはんおいしいなぁ」
「今日は眠たいから眠っちゃおう」とか

ただ生きる、ことに集中して
自分のため生きるために生きていれば
100点だと思う。



誰かの「ため」
何かの「ため」に生きてきたときの
輝きや希望、安心、
これが生きる意味なのだという無双感。

あの感覚を信じ
必死で代替品を探していたけど、
たぶんこれからの私には必要ないのだ。

誰かのために生きなくていいし、
何かのために生きなくていい。

それは自分勝手なことでも罪でもない。
これからの私に必要な感覚なのだ、きっと。







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