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誰かが読んでくれますように

たまにとてつもなく孤独に襲われることがある。
友達もいるし、家族もいる。1人じゃない。だけど私には誰もいない、何もないという不安に駆られる時がある。友達はいるけどその友達には違う誰かがいて別に私がいなくてもまかなえる誰かがいる。
1人は好きだ。1人でいることはとても好きだし、1人で行動したり、1人でどこかへ行くこともとても好きだ。1人でできる趣味もたくさんあるし、基本1人〇〇はクリアできてると思う。
だけどそんな人でもたまには誰かといたいと思うのだろう。だからみんな友達だったり、恋人だったり繋がりを持とうとする。最近はこの繋がりを断ちたいと思う時が増えてきた。
繋がりがあるから私はこんな感情に左右されてしまうのだと思い込んでいる。ただ寂しいだけなのに。
友達と会うと決まった時は嬉しいのに、近づくにつれちょっと憂鬱になってしまうのは何故なのだろう。会ってしまえばそんなことないし、とても楽しいしなんならお別れって時はまた次早く会いたいなと思う。でもそれは本当ひと時の感情で、時間が経てばそんなこともなくなる。そして、その時に撮った写真を見返して会いたいなとまた陥る。でも自分からは会おうだなんて言わない。言えない。その人が会いたくなかったらどうしようなんて無駄なことを考える。結局は自分が傷つかないように相手と距離を取るように心がけている。たまにタカが外れる時があるが。
人は自分のためにしか行動できないものだと思っている。誰かのためと思っている行動は自分がこうしたいから、そういう自分でいたいからという心うちからであって私もそういうものだと思っている。私はよく優しいと言ってもらえる。それだって優しい人間でいたいがために、優しい人間に見せたいがためにやっていることだ。優しい人であるために、誰かを気遣うし、言葉を選ぶ。でもそれが果たしてその人のためになっているかは分からない。結局これも自己満足のためなのだ。私はこうしてるから優しいだろうという一種の脅迫で、その人からしたら善人ぶりやがってって思うだろう。誰かに優しくする分見返りを求めようとする自分がいるのもはしたないと思う。私はこれしてあげたのにと思ってしまう自分はなんて浅はかなのかと思う。そんなんお前が勝手にしたことだろうと感じる。
でも、これだけは本心であると言えることがある。本心であると思いたいことがある。みんなが幸せになればいいということだ。救われるべき人が救われて、それぞれの幸せの形で幸せだと思える日が続けばいいなと思う。なんでこの世界はみんなが幸せになるように作ってくれないのだろうか。本当に本当に私のことを犠牲にしていいから、私がどうなってもいいからそれ以外の人を幸せにして欲しい。でもこれも傲慢な考えなのだろう。幸せになりたいとみんなが思ってるわけではないだろう。私がどうなってもいいなんて何言ってるんだと思うだろう。でも本当にそれで誰もがこの世界で救われていくのなら私はそれでいいのだ。それがいいのだ。それを私が望んでいるのだ。だから、だから本当にお願いしたい。でも報われるべき人というのは案外報われない。この世界は本当に不条理で、頑張っている人がたくさんいるのにその中でも何でって人が報われる。楽になる。幸せは不幸の上に成り立っている。本当よくできた言葉だ。信じるものが馬鹿を見る世界である。じゃあ私たちは一体何を信じて歩けばいいのだろう。自分の信じるものがない人は何を思って歩けばいいのだろう。何を救いとして、どんな希望があると信じて未来へ向かえばいいのかそれが分からなくなる時がある。絶望感が襲ってきて、不意にああもういいか、死ぬかってなる。でもそれでもそういう時でも理性はちゃんと働いていて簡単には死なせてくれない。生きることは難しい。でも結局死ぬことも難しい。どれだけ太陽が眩しくても、みんなの笑い声が響いていても、いや、逆にそうなってるからこそ生きにくい、息しづらくなる時がある。自分だけ上手く生きれてなくて、何で今私は生きているのか、そんなこと考えたって意味ないのに考え出したら止まらなくなる。そして、その思考は正解なんて導かない。死にたいの連鎖へと導く。
一歩、車がある通りへ足を踏み出す。
でも、思う。ここで死んだら迷惑がかかる。迷惑がかかることはしたくない。車にも迷惑だし、親も多分悲しむ。親というのはちょっと厄介だ。今は死ねない。親がいなくならないと、私は安心して死ぬこともできない。友達や職場、ある限りの私の縁を全て断ち切らないと私は誰かに迷惑をかけて死ぬことになるということを最近知った。前までは全くそんなことを考えず、このまま赤信号で突っ込んでしまおうかとか考えていたのに。じゃあ、まだ生きなきゃいけないのか。でもいつまで?それはいつのこと?私はまだこの世界にいなきゃいけないのか?自分でまた自問自答が始まる。ずっとこれを考えてるわけではないけど、心の奥底には常に死が存在してて、それがたまに本当にたまにとてつもなく浮上してくる時がある。その時私は誰かに助けて欲しい、でも誰にもこんな醜い自分を見つけて欲しくない、晒したくないという無茶苦茶な感情に揺さぶられている。誰か、誰か、誰か、助けて。ああ、私はいつ救われるのだろう。そうだ、私だって救われたいのだ。そうに決まっているのに。なのに。でも私が救われて誰かが救われないのはまっぴらだ。それは私が許さないし、それならば救わないでくれと思う。でも神様は本当に訳わからないし、残酷で私の願いなど無視してしまうのだろうと感じる。
文章とは、自分のために書くものである。
最近読んだ小川哲さんの小説の中で出てきた言葉。
自分が救われるためには自分で書くしかないのかとその時気づいた。なるほど。だから私は救われなかったのか。ずっと自分の救いが何なのかわからず、それを探すために本を読み漁っていた。自分の救いは小説だと思っていた。本を読むことで、物語に入ることで私は私でいられると思っていた。でも最近はとにかく読まなければという義務感に追われていた。読書は大好きだ。本当に本当に本が好きであると心から言える。だけど読書を義務化していたのも多分事実だ。自分が救われるためには自分で救うために、吐き出すために。私はずっと読む側でいたいと思ってた。そっち側にはいけないと思ってた。今でもいけたなんて思っていない。でも尾崎世界観さんは言ってた。好きだけどできないことをやっていたい。できないことがないとつまらないと。好きだけどできないことをやっていたいから小説を書きたいと。尾崎さんの言葉はなぜなるほどと思えるのか。ラジオでも生きるのは得意じゃないけど好きだと言っていた。いつか私も好きになれるだろうか。できないことをやってみたり、挑戦してみたら好きになれるだろうか。そうやってみんな人生を彩っているのだろうか。そう思うと、私も書いてみようと思えた。結局私は、誰かのためと偽って自分のために書いている。誰かを救いますようにではなくて。
私も、私でもこんな自分を好きだと、こんな自分を救いたい。救えるように、まずはちょっとずつできないことをやってみたい。そして誰かが、見てくれたりこうやって私が言った言葉だったり、思いで救われる世界だったら、そんな世界になれたらいいなと思う。それが私の望みでもあるから。私が言葉で少し救われるように、誰もが救われる、報われるような世界になりますように。私のような人がいなくなりますように。願いはどうしたら届くのだろう。

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