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散々です

タバコを吸う人は嫌い。ギャンブルなんてもってのほか。じゃあ、本を読む人はどうなのだろう。
趣味は読書ですと言うと、へ〜いいね、素敵だなんて言われるが大抵の人が多分思っていない。そういうことを言う人に限って、全く本に興味がない。別に本を読むから素敵になれるわけじゃないし、本を読んでるから賢いわけでもない。
ただ、本を読みたくて、物語を読みたくて読んでいるのに。そんな風になんか、見下してるではないけど本読んでるんだとちょっと笑ってる感じが何か気に食わない。それぞれに、私たちには私自身が救われるものがあるというのに。それが私にとっては本で、ある人はタバコかもしれないし、パチンコかもしれない。音楽だったり、恋人や友達と過ごすこと、仕事の人もいるだろうし、睡眠が全てだって人もいる。たくさんの救いがある中で、なぜそうやって誰かの救いを馬鹿にできるのだろう。
放っておけばいいのだ。それでその人が救われると言っているのだから。辞めたくても辞めれないのは、それがその人にとってはこの世界の絶望を乗り越えるためのちょっとした希望で、光で。でもこの現実は、好きなものを好きということにちょっと勇気がいる。私にはこれが必要だと声を大にして言うには、世間の目が冷たい。それと同時に、嫌なことも嫌だと言うには勇気がいる。だからたまに自分を、自分の中の確かなものを見失う時がある。どうしようもなくやるせなくなって、何もかも放棄したくなる。だけど、何もかも放棄するにはこの社会は厳しくて、どんなにどんなに逃げ出したいことがあっても明日は来るし、いかなる時でも朝はやってくる。それが迎えられて嬉しい人もいれば、朝が来て絶望を感じる人もいる。感じ方も人それぞれなのだ。
自分が光だと思っているものが光じゃないときだってあるだろう。それは多分自分では気づけない。今までそうやって生きてきてしまっているから。周りが、どうやって気づけるか。もしそういう場面に直面している人がいるのなら、私は助けたいし、目を覚させてあげたい。この世界は、だいぶクソだけどちょっとだけ本当ほんの少し、たまに美しいものがある。きらりと、輝いていて眩しいものもある。それを見つけられるのはきっとほんの一握りなのだろう。上だけではなく、足元にだって幸せの欠片というのは転がっているのだろう。私は足元ばかり見ながら歩くけど、いつも見つけるのはゴミだらけだ。ゴミばかり見つけて、ゴミばかり拾って捨てている。いつかそれが報われると信じている。こういう気持ちで拾ってしまっているから、神様に見透かされているのだろうか。
人間とは難しい。特に人と関わるというのは、本当に難しい。私もだけど、結局みんな誰かと繋がっていたくて、無性に本当たまに無性に、誰とも繋がりたくなくなって関係を切りたくなる時もあるけど、結局寂しさが勝ってしまう。これは、寂しいという感情なのだろうか。もう誰とも会いたくない、関わりたくないそう思っていたはずなのに、そんな訳にもいかないし、そんなこと思った次の日には普通に会社に行って、おはようございます今日も暑いですねなんて世間話に花を咲かせたりするのだ。
友達もそうだ。別に会わなくてもやっていけるし、会わなかったら会わなかったで心は楽で、会う約束をしてしまった時正直面倒臭いなと思ってしまう時もある。でも、いざ会うとなったらこの日何着ようかな、アクセサリー新しいの買っちゃおうかななんて浮かれポンチ野郎になってしまう。そんな自分がちょっと悔しいし、結局一人で生きていけないのかと悲しくもなる。そして遊んだら結局楽しくて、写真とかをあとで見返してしまう。でも、楽しいあとはなぜか少し悲しくなる。虚無感に駆られる。人と会うのは別に嫌いじゃないけど、特別多分好きでもないんだと思う。
やっぱり一人でいるのが楽で、自由で、私は一人が好きなんだなと思う。そう、一人は好きだ。好きなのだ。でも、一人いいよね、やっぱり楽じゃない結局!と一人じゃない人たちから言われるのが一番心にくる。その人たちは、誰かの温もりを常に感じられてて、その中でも一人の自由さを知ってて。私は、一人なのに一人の自由さしか知らないのに、やっぱり一人が好きだなんてほざいている。こういう奴が一番可哀想だなと思うし、ひねくれてるなと思うけど、一人は本当に本当に好きだけど、やっぱり誰かといることには敵いはしないと思う。恋人と歩いている友人たちを見ると、私は絶対にそちら側にはいけないんだろうなと自覚するし、お前は一生一人だよと言われている気もする。それでいいと思える自分もいるし、心の底で悲しくて泣きそうになってる自分もきっといる。
こうやって私は、自分のことがよく分からなくなる。自分がどういう人間で、自分がこれからどうありたいのか、どうするべきなのか。こうしたいと思ってるはずなのに、周りに影響されたりしてすぐ流されたりもする。そうかと思えば、変わらないところは変わらず頑固なところもある。生きることが多分というか、とてもとても下手くそだなと思う。
結局私の救いは、人なのだろうか。結局私は誰かに救われたいのだろうか。だからこうやって、物語に縋ろうとしながらも現実にまだ夢を見ているのかもしれない。そんな自分が本当浅ましくて、ため息をつきたくなる。
そんな時はたまに上を向く。そしたら、太陽がこちらを向いている。陽の光が私を照らしてくれる。太陽の光に、いつも生かされるといっても過言ではない。空の色、雲の形、太陽の陽の色。こんなにキラキラ輝いてるものが届きそうで、届かないところにある。私たちのすぐそばに。いつもありがとう太陽。雨も好きだけど、やっぱり陽を浴びたい。
私のいつもの思うことは、私以外の誰かがどうか、どうか幸せになれることだ。その人たちの、それぞれの幸せの形で、たくさんの愛に包まれて、もう私のことを犠牲にしていいから、お願い神様。どうか誰もが幸せになれるような世界になりますように。私以外が幸せになれるのなら、そんな世界が存在するなら、この世界をそうしてほしい。このクソまみれな社会をどうか変えてほしい。私に変えれる力があったらいいのに。どうやったら変わるのだろう。魔法が使えたらいいのにな。

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