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「誇りに思う」違和感への答え

わかりました。
スッキリしましたよ。
noteってすごいなぁ。
書いてみるもんだ、とつくづく思います。

昨日のnoteでわたしは、「日本人として誇りに思う」という言葉には「ちょっと図々しいのでは」と思うのに、アジアとか地球規模になってくると何か親愛の情が湧いてくることへの不思議について綴りました。

でもねぇ
これ、規模の問題じゃありませんね。

家族だろうが
同級生だろうが
日本だろうが
アジアだろうが
人類だろうが
銀河系だろうが

関係ない。

同胞として、嬉しい。
ここまでは分かるのです。
わたしにも覚えがあります。

関東と関西の学校が戦っていたら
なんとなく関東勢を応援してしまうとか

球児が甲子園の土を集めていたら
親でもないのに泣けてくるとか

日本代表が世界選手権に出ていたら
一緒になって熱くなってしまうとか

そういう、まあ関係ないといえばないけれど、自分寄りと思われる方の味方につきたくなる同胞感情はわたしにもあります。

関東より日本、日本よりアジアと規模が大きくなればなるほど、味方が増えたみたいな気がして、嬉しい。
スポーツバーやスタジアムで、みんなで喜びを分かち合うのって、楽しい。

人類VSエイリアンだったら、たぶん人間一派を応援してしまうでしょう。
ホモサピエンスの端くれとして。

ここまではいい。
問題なのは、ここからなのです。

例えば、そう。
有史以来初の快挙を遂げた学生さんがいたら
校長は朝礼で表彰しつつ、声を掛けますよね。

よくやってくれた。
君は、当校の星だ。
心から嬉しく思う。
あとに続く後輩たちの励みになるだろう。
本当に素晴らしい。
君の功績を讃えよう。

(…ここまではいいとして)

校長として、わたしも誇らしい気持ちだ。

(はい、アウト!)

分かったのです。
嬉しく思ってもいい。
どこまで範囲を広げて「同胞」としてもいい。

でも、自分の手柄に置き換えようとする雰囲気を感じた途端、他者の頑張りに、大して何もしてない「自称同胞」が乗っかろうとしている兆しを察知した瞬間、わたしの眉根は寄るのです。

共に喜ぶことは美しいけれど、人の偉業に乗じて自分の価値も上がったような気持ちになるのは違うのではないか。

本人や周囲で支えた人たちの努力を、あわよくば横取りして自分もいい目をみてやろうとする根性って、どうなんだ。

有名になると、知らない親戚や同級生が増える…と言いますが、わたしはそういう浅ましさに疑問を抱かずにいられません。

それはちょっと、厚かましいんじゃないのと。

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