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「美しくあれ」という願い、あるいは呪い

子どもを産まない、と決めたわたしですが
それを夫以外の人に堂々と高らかに宣言は、
していません。

孫はまだか、と決して口にせず
いつもわたしを気遣ってくれて
出先ではお土産を買ってきてくれ
時々お手紙やLINEをくれたりする。

夫の親御さんには、心から感謝しています。

世が世なら、わたしは「石女(うまずめ)」として離縁されていてもおかしくない身。

…まあ、そんな世の方がどうかしていたのだし、自由も人権もへったくれもない恐ろしい時代だったわけですが。

でも、令和の世になっても尚、安土桃山時代の価値観を引きずっている人々が確かに存在している中、自主性に任せてくれる義両親を持ってわたしはラッキーだったし、聞かずにいてくれるお気遣いはありがたい限りです。

ところで、夫の家では代々、女の子が生まれると「美」という字を名前のどこかに入れる習わしがあるのだそうです。

美香、美紀、美代、美穂子、冨美枝、芳美…

「美」が入る女性の名前は星の数ほどありますから、さほど難しい縛りではありません。

でもそのことで、わたしの
「子ども産みたくないな」という気持ちは
少し増しました。

大きく、ではありませんが
確実に少しは、増しました。

今日は、そんなお話です。

***

子どもの頃、わたしは未来の自分の子の名前を妄想しました。
まだ生理も来ておらず、妊娠・出産・育児が現実的ではなかったからこそ、無邪気に心行くままいくつも考えました。

当時、ジェンダーニュートラルなんて言葉はありませんでしたが、なんとなく、男の子か女の子か分からない名前がいいな、と思っていました。

生まれた子が女の子だったら、名前に「美」を入れる。
となると、どうしても女性らしい名前になってしまいます。

(たまに「美春(ヨシハル)」等、美の入る男性の名前もありますが、そうすると逆に男性らしくなるので、中性的な「美」の入る名前…となると非常に限定的です。)

子が成長して、もしLGBTQの内のTあるいはQと自認したとき、誰が見ても「女性」と判断するであろう自分の名前に違和感を覚えることはないだろうか。

自分の名前を好きになれないことに罪悪感を抱くかもしれない。
もし名前を変える場合は煩雑な手続きが必要になるのではないか。

恐らく、初めに「美」という字を女の子の名前に入れようと決めた人が生きた時代には、性的マイノリティーの存在は「ない」ことになっていたのでしょうし、ルッキズムなんて言葉もなかったでしょう。

女の子は美しい方がよいと何の疑いもなく思われていた時代。
美しくあれ、というのは呪いではなく、願いだったのだと思います。

美しさというのは何も見た目のことばかりではありません。
心の美や、生きる姿勢の美しさ、審美眼を磨くなども「美」もあります。
でもそうすると、美という文字を入れるのが女の子に限定されている理由が判然としません。
美しく生きることに、性別は関係ありませんからね。

***

そんなわたしの思いを夫や夫の家族に伝えれば、何も無理に「美」を入れる必要など無い、との赦しが出ることでしょう。
でもわたしには、それをわざわざ説明することそのものが酷く御しがたいことのように感じられました。

子が生まれて性別が与えられるとき、女の子と判定される可能性はほぼ50%。
半分の確率で、伝統に屈するか議論を交わすか選択しなければならない事態に陥るのか、と思ったとき、わたしの「子ども産みたくないな」という気持ちは少し、増したのです。

もちろん、「美」が入っている名前の人や、その名前を付けた人、付けようと思っている人に思うところはありません。

わたしが個人的に「代々、慣習として名づけに決まりがあり、それは女の子限定である」という事実に対して微かな抵抗を感じた、というだけのこと。

産まないと決めた理由の内のほんの数%ですが、誰にも打ち明けていない心の内を、noteに綴ってみた次第です。

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