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悪口と煎餅は似ている。

お煎餅は美味しい。

都会ではあまり見かけなくなりましたが、下町を通りかかったときに煎餅屋があるとついつい覗いてしまうし、子どもの頃は「おせんべ焼けたかな」という、今思えば何が面白かったのかさっぱり分からない遊びをしたものだし、何しろお煎餅の焼ける匂いは格別です。
ほうじ茶を焙じているときのお茶屋さんの匂いと同じくらい格別。

でも、何故なのでしょう。

人が食べている煎餅って、臭くないですか?

自分が食べているときは美味しさしか感じないのに、人が食べる煎餅は臭い。

これ、「悪口」と似ているなと思ったのです。

悪口って、楽しいですよね。
その中でも、悪口の対象者に不満を抱える者同士の「それ!」「ある!」「わかる!」という強い共感は格別。

あれは割と、何物にも代えがたい。

「人の悪口を言ってはいけません」と言われながら育ってきたし、実感として自分もそう思っているのにも関わらず尚、魅惑的な盛り上がりを見せる悪口。

でも悪口というものは、盛り上がっている本人たちは楽しさしか感じていなくても、周りから見たらどうにも不快なものです。

これまで何回もnoteに書いていますが

何様だよ
お前はどうなんだよ
安全なところから文句だけ言いやがって
一回同じ立場になってみやがれ

という気分に、結構な頻度でなります。
人の悪口は、聞いていられない。

これは、煎餅臭だ。

人の食べる煎餅が臭い場合の対処法として最も効果的なのは「一緒に食べる」でしょう。
納豆とかドリアンとかくさやとか、そもそも臭いのきつい食べ物も同じです。
お寿司屋さんの前を通りかかると魚臭くても、食べている間はあんまり気にならなくなるのと同じ現象だと思います。

でも、悪口にこれ、適用したくないですね。
たぶん、一緒になって悪口を言ったら楽しいと思いますよ。
仲間入りした感じになったり、「結構言うねぇ」とか言われて、勇ましさのようなものを認められたような気がして、ちょっといい気分になったりして。

でも、煎餅と違って悪口は、後味が悪い。

あんなこと、言わなければよかった
そこまで思っていなかったのに
つい周りに合わせて罵詈雑言を並べてしまった…
と後悔したこと、今までにたくさんありました。

第2の手法「その場から離れる」を出来る限り適用していきたいですね。
煎餅も納豆もドリアンもくさやも、適切な距離を保てば安心・安全です。

悪口も煎餅も、人間関係の諸々も、割と全体的に距離感が解決する気がする、けれどもいつも適切な距離を保つ自由が与えられているわけでもない、というのがこの世のままならなさ、だと思います。

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