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短編|向日葵と銃弾【第二話】

 フョードルにとって、それは初めての感情だった。頭で思い浮かべるだけで、熱が思考を妨害し、強制的に人間本来の繁栄はんえいに基づいた本能を自覚させられる。

 レーナの殺しに失敗した後、フョードルは一言も言葉を発さずにその場を後にした。単純に自分の中に芽生えた感情、それを処理しきれずの逃走である。しかし、その事実はフョードルにとって初の依頼の失敗であり、姿を見られた上に逃げるというのは殺し屋失格だ。姿を見た人物は一様に命を奪わなければならない。

 フョードルは、熱が徐々に冷めてきた頭を正常な状態へと戻しながら、今後のことについて考える。その時、部屋の壁に飾っている一枚の絵画が目に入る。一本の向日葵が大きく描かれており、芸術的な見解をフョードルは持ち合わせていないが、その観点から見ても綺麗な絵であることに間違いはない。今いるのは仕事用として与えられた一室であり、殺し屋という仕事上、居住を転々とするので、向日葵の絵の存在には初めて気づいた。

「フョードル、お前が失敗するとは思わなかったぞ」

 ノックもせずに突然一人の男が部屋へと入ってくる。黒のスーツに全身を包み、ふちが円形の特徴的なサングラスをかけているその人物はボグダーンという名の男だ。簡単に立場を説明すると、フョードルのボスということになる。裏社会に顔が利いた人物で、フョードルがいつもこなしていた依頼を持ってくるのがこの男だ。幼い頃に捨てられていたフョードルを拾い、殺し屋として教育してくれた。一見聞けばまるで美談のように聞こえないこともないが、ボグダーンが自分にとって都合のいい駒を作りたかっただけということも、フョードルは幼い頃から気づいていた。ボグダーンの話す声音からはフョードルに対して情が感じ取れないからだ。

「それで、僕を殺しに来たというわけですか」

 その言葉を合図に、フョードルはボグダーンが部屋に入ってきた時点で掴み、後ろに隠していた銃を胸のあたりにあげ、弾を放つ。パンッ! と耳の内側に響く音を感じながら、フョードルはボグダーンの次の行動を予測する。ボグダーンは実質的にフョードルの師であり、昔は凄腕の殺し屋だとも聞いたことがある。この程度で決着がつくと思うほどフョードルも馬鹿ではない。

「いい速度だ。銃を構えて打つまでが早い。もしかすると私の現役の頃より早いんじゃないか?」

 やはり、行動を読まれ回避をされていた。そして、否定をしないということは、フョードルを殺しに来たとみて間違いなかった。そもそも、殺し屋にとって依頼の失敗とは死を意味する。ターゲットが雇った護衛などに返り討ちあう場合もあれば、依頼を失敗してなお、のこのこと帰還した際にボグダーンのように管理している人間に始末される場合もある。また個人でしているものであれば、同業の人間から殺されるパターンだ。フョードルの場合二つ目の『依頼失敗してなお、のこのこと帰還』に該当するだろう。

「あなた自ら来るとは思わなかったですよ」

 ボグダーン本人が来るという可能性もフョードルの頭にはあったが、ボグダーンは普段表には顔をあまり出さないので、同業の殺し屋が来る確率が高いと踏んでいたのだ。

「子供の躾をするのが、親の役目だろう?」

「思ってもいないことを」

 ボグダーンは腰から二丁の拳銃けんじゅうを手に取り、迷いなくフョードル目掛けて引き金を引いた。フョードルはボグダーンが銃を手に取った段階でベットの裏側へと移動する判断をしており、間一髪で難を逃れる。

「一応言い訳くらいは聞いといてやる。何故、失敗した?」

 フョードルが隠れたのを境に、二人の命の取り合いは半ば膠着状態こうちゃくじょうたいだ。ボグダーンにとっては純粋な疑問だった。自分の技を教え、強力な駒と化していたフョードルが依頼に失敗し、逃げてきたのだというだから何かあるのは間違いない。ターゲットに腕利きの護衛でもいたのか、何らかの状況によって殺すことができないのか。どちらにせよ情報は大事だ。フョードルに任せた依頼は失敗したが、ボグダーンが依頼主から受けた依頼はまだ生きている。次の刺客しかくを送り、達成しなければならない。

「自分でもわかりません」

 フョードルはおよそ殺し合いの場に相応しくない声で、心境を語り始める。

「僕も殺すつもりでした。けど、殺せなかったんです。今自分の中にある気持ちが何なのか、一番知りたいのは僕です」

 殺せない理由。それが何なのか、フョードルは薄々気づいてはいた。しかし、その気持ちをどのように扱えばいいのか、それがわからない。今まで、何の躊躇ためらいもなしにたくさんの人の命を奪ってきた。中には悪人もいたであろうし、レーナのような何の罪もない人間もいたかも知れない。それを考えてこなかったことを、境遇きょうぐうのせいにするつもりはない。ただ、フョードルの人生を費やしてでも叶えたいことが一つできた。それは――――

「レーナさんは、殺させない」

 フョードルは自分でも身勝手だと感じている。今までのターゲットは殺して、レーナだけは特別だからと生かす。死んだあと、地獄に行くことは決定だ。許されない願望ではあるが、もう少し早くレーナと出会っていたら人生は変わっていただろうか。否、そんな未来は存在しないので考えたところで意味はない。フョードルが今やるべきことは、レーナを守ることそれだけだ。

「マルガヤ商会のお嬢さんは死ぬ。それが依頼であり、この業界の絶対だ。何があったかは知らないが、命令されて動く人形だったお前がこうまで変わるとはな」

 フョードル自身も驚いている事実についてボグダーンは触れる。フョードルもレーナから逃げた後様々な思考を繰り返していた。

 今のフョードルからすれば以前のフョードルは死人も同然だ。レーナの声を聞いた時、この世に生まれ落ちたかのような感覚があった。初めてフョードルは『人間』になれたのだ。

「まあいい、お前にはもう関係のないことだ」

 瞬間、ベットの裏に隠れていたフョードルの目の端に、黒い異物が転がる。そして、フョードルがその物体を脳で処理する前に、それは爆ぜた。

「――ッ!」

 視界がが爆風に包まれ、肌は敏感に熱を感知する。それと同時に理解する。手榴弾しゅりゅうだんを放り込まれたのだと。普段なら、このような失態はしないフョードルだが、この時この場においては、思考が冴えていなかったとみていいだろう。自分が死ぬことに対しては異論はない、それだけのことをやってきた自覚がある。だが、ここで死んでしまっては、レーナはどうなるのか。その答えは見えている。あの美しい声音を世界から失うわけにはいかない。フョードルは自分自身を鼓舞こぶし、動かない右足を引きずり、燃え上がる洋服を身につけ、爆炎が舞う中、二階の部屋の窓から飛び降りた。
 

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