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台北で起業したADHDが、嫌いな仕事にもはしゃぎまわった理由 【ADHDは荒野を目指す】

 5-1.

 十月。
 僕が台北に日本人子女向け進学塾を開校してから、一か月が経ちました。

 その一か月、塾は――驚くほどの成功をしていました。

 九月一日。
 僕は自作のウェブサイトをオンライン上に公開し、台北日本人学校でチラシを撒き、あとはただ待っていただけなのに――次から次へと、入塾希望者がやって来るのです。

 一応は設定してた人数制限――一人で見られる範囲内の人数で、かつ『少人数できっちり見て貰える』と思わせられるような人数――を守る為、何人かの生徒の希望を断らざるを得なかったほどです。

 勿論、やって来た生徒の殆どは、それまで勤務していたH舎で、僕が指導していた生徒達です。
 H塾には、ハイレベルな中学受験向け指導が出来る講師が、僕一人しかいませんでした。
 しかも僕はADHDであり、楽しい授業をしなければ自分自身退屈してしまうのです。
 分かりやすく、楽しい指導をしてくれる講師――中学受験を希望する彼らがついてきてくれることは、十分想定内でした。

 けれども驚いたことに、僕が指導をしたこともない生徒もまた、それなりの数、入塾を希望して来たのです。

 そしてその保護者達は、口を揃えたように言いました。
 ――H舎は大嫌いだ、と。

 そう。
 H舎のやり口が余りに汚いことは、台北日本人社会の共通認識になっていました。
 無用な不安をあおって沢山の授業を取らせて荒稼ぎする――ことに関しては、皆それほどの不満は持っていません。
 塾とはそういう場所です。日本でも台湾でも。

 ただ、それでもやはり、H舎の評判は悪くならざるを得ません。

 日本の高価な教材を台湾で勝手に複製し、生徒に高値で売りつける。
 脱税をするために、まともな領収書を出さない。
 転勤による退塾でも、授業料返還は絶対にしない。
 良い講師でも、塾に逆らえばすぐに解雇される。

 そんなことを堂々とやっているのです。
 生徒の家庭には、大手企業の駐在員の家族として真っ当に生きて来た人々が多いのですから、こんなやり口を嫌う保護者が多いのも、当然でしょう。

 それでも、多くの生徒がH舎にいたのは、他にまともな日本人向け学習塾が存在しなかったからだけのこと。


 そこに、H舎で人気講師だった青年――しかも灘校・京都大学を出ている――が、新たな塾を作ったとなると、興味を抱く保護者が出て来るのも自然なことでしょう。

 そして彼らは、その青年にこう言われるのです。

 ――まだ営業許可が下りていないので、それが出るまでは完全無料で授業をします。
 ――その間に指導が気に入らないと感じられれば、勿論そのまま退塾していただいて構いません。

 ――教材は日本の物を日本のものを原価で購入していただきます。
 ――授業料を頂いた時は、台湾で通用する正式の領収書を発行します。

 その青年――ADHDである僕が、どれだけしどろもどろになり、どれだけ頼りなさそうに見えたとしても、これなら少しぐらい子供を預けてもいいかな、と思うのは当然でしょう。

 そして、子供相手には堂々と振舞える僕は、やって来た生徒達の心を簡単に掴み、彼らの入塾を勝ち取って行ったのです。


 そうして、途轍もなく多忙な日々が始まりました。
 月曜から金曜は毎日五時間、土曜日は十二時間、フルに授業があります。
 それだけならH舎勤務時代と変わりませんが――今僕は、塾の一社員ではなく、塾唯一の社員なのです。

 幸い、授業料を貰っていないために、経理に関する仕事はまだ存在しませんが、それ以外の全ての事務仕事――電話やメールでの保護者への連絡、予定表の作成と配布、日本の教材会社や模試会社への発注、印刷用紙や電球などの消耗品の補充、さらに教室掃除やトイレ掃除に至るまで、無数の仕事を、僕一人で、手を抜かずにやらねばならないのです。

 僕は、面倒なことが大嫌いな、ADHDです。
 だからこれらの仕事は、最も僕に適していない上に、最も僕が嫌う仕事でもあるのです。

 それでも、僕は逃げませんでした。
 睡眠時間を削り、日曜日も仕事に没頭し、ただひたすら動き続けました。

 僕の人生において、三度目の、「スイッチに入った」状態でした。

 兄の死に強い衝撃を受け、嫌いな暗記勉強までしっかり頑張った受験勉強。
 高山病や警察に苦しめられながら、過酷な移動を耐え抜いたチベットヒッチハイク旅。
 その時以来の、充実した時間です。

 H舎において、脱税犯にされた上に、いきなり月給二万円にされた――とんでもない屈辱を受け、強い鬱屈が溜まっていたこと。
 そして、自由が大好きなADHDが、自分の思い通りになる会社を手に入れたこと。
 ――しかも、日本よりもずっと自由な、台湾で。

 それらの理由が合わさって、やる気に燃えていた僕の前に、大勢の人々が集まって来てくれたのです。

 こんなに嬉しいことは、こんなに幸せを感じることは、今までありませんでした。

 だからその時の僕が、どんな面倒なこと、どんな嫌なことだって、正面から向き合うことが出来たのも、当たり前のことだったのです。

 僕は走り回り、喋り続け、おどけ続け――ひたすらにはしゃぎまわります。


 とはいえ。
 勿論、懸念事項は幾つも存在します。

 何よりもまず、お金のこと。

 営業許可がないため、授業料を請求できないのです。
 一方、家賃、光熱費や消耗品の代金は全て僕が支払わねばならない。

 元々大した金額でもなかった貯金が、ただ減って行くのです。
 苦しくない筈がない。


 それでも――その気持ちを落ち着けることは、決して難しくありません。
 何せ、大勢の生徒がいるのです。
 授業料を取れるようになれば、売り上げは月六十万円を優に超えるのです。

 社員は僕一人、教室は住居と兼用――経費は殆ど掛からない。

 営業許可さえ下りれば、かなりの黒字になることは、ほぼ確定しているのです。

 それを思えば、心も落ち着くのですが。

 ――ただ、肝心の営業許可が、いつ下りるかまるで分からない、となると、また不安が浮かんできます。

 塾を開業するためには、消防局の厳しい消防検査を受け、合格しなければなりません。
 しかし、その消防局の検査が、いつまで経ってもやってこないのです。

 開業を手伝ってもらった――そして三十万円も支払った――コンサルタントによると、今消防局が非常に忙しく、時間が中々取れないとのこと。

 それでも、消防局に顔が利くそのコンサルタントが全力で急かしているかので、可能になり次第消防局はすぐ来るし、審査には必ず合格するから、その後一週間ほどで必ず営業許可は下りる――と、コンサルタントは言うのですが。

 八月頭には営業許可が下りる、八月中には下りる、九月半ばには下りる――これまで、そう自信満々で言い続けていたそのコンサルタントです。
 どこまで信用すれば良いのか分からない。

 勿論、だからといって、営業許可が下りない、なんてことは流石にあり得ないでしょう。
 恐らく遅かれ早かれ、それは必ず下りる。
 コンサルタントに成功報酬を約束していることから考えても、そこを疑う必要はないでしょう。

 それでも、それが遅れれば遅れる程、金銭的な損害は増えます。
 それだけではありません。いつまで経っても営業許可を得られないままというのは、生徒の保護者に不安を抱かせる可能性が十分にあります。

 とにかく早く消防局が暇になるよう祈り続けるぐらいしか出来ない。
 そういう事態へのもどかしい思いは、僕の胸の中に常にありました。

 
 そんな、少しの不安はあっても、それを十分に打ち消せるような強い幸福感の中で、僕は元気に走り回っていたのですが。

 やがてそこに、恐れていた魔の手が伸びてきます。
 ――H舎の、金村の手が。

 そして、十月のある日。
 五人もの生徒が、一斉に退塾してしまうのです。 

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