女性同士の戦いに口を挟めないADHD 【ADHDは荒野を目指す】
6-28.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。
けれども、ADHDである僕には、会社運営などうまく出来ません。特に人事は壊滅的で、オフィス内にはギスギスした雰囲気が漂い、辞めて行く社員の多い。
その上、台湾人の妻とも関係がうまく行かず、結局離婚。
そんな状況でも、肥大化した会社を支えるために、僕は週休ゼロ日で働き続けなければならず――肉体的にも精神的にも、どんどん疲弊して行きます。
それでも、頼れる旧友・岩城が入社して、リーダーシップを発揮。これで僕も一息をつける――と思っていましたが。
入社僅か三か月、その岩城が、社内のトイレで自殺未遂を起こします。
数日後、精神科に入院した岩城の主治医から、治療のための協力を求められます。
僕は、通訳として台湾人経理・イーティンを連れて、病院に行き、岩城と話し合いを始めたのですが。
その途中、イーティンが、同席していた岩城の奥さんに向かって、鋭く指摘するのです――録音は止めて下さい、と。
僕は暫くの間、状況が呑み込めず、驚いてイーティンと岩城の奥さんを交互に眺めます。
改めて見ると、確かに岩城の奥さんの手元には、小さな機械が見える。
恐らくボイスレコーダーなのでしょう。
イーティンは良く気付いたな、と僕は感心しますが。
そんな呑気なことを思っていられる状況ではありません。
睨みつけるイーティンと、見返して微笑む岩城の奥さんと、その険悪な雰囲気についても、大問題ですが。
暫く経って、ようやく僕も理解します。
――録音されるのは、僕にとって非常にまずいことだ、と。
そう、社員の、社内での自殺未遂――普通に考えれば、パワハラが疑われる状況でしょう。
勿論、社長たる僕の。
岩城や岩城の奥さんが僕を訴える恐れは、十分にある。
――つまり、僕がここで下手なことを言い、しかもそれを録音されてしまえば。
僕は、大変な事態に陥りかねない。
僕はADHDです――とにかく失言が多い。誤解されることも多い。
僕は慌てて口を閉ざします。
――録音を止めてください。
イーティンがはっきりと言います。
――どうしてですかぁ?
笑顔で、明るい声で、岩城の奥さんが言います。
――とにかく、録音は駄目です。
イーティンが厳しい声で言います。
――それはつまり、録音されたらまずいことがある、ということですね?
イーティンは何も答えず、岩城の奥さんを睨みます。
岩城の奥さんは笑顔を崩さない。
その横で、僕は怯えます。
――やっぱり、僕は敵意を持たれている。
態度には表さない、むしろ明るく振舞っているものの――それは逆に、激しい怒りの表現だったのだ。
岩城本人はともかく、岩城の奥さんは、僕を激しく憎んでいる。
だからこそ、隙を見せない笑顔を向け。
だからこそ、僕の発言を録音し、僕を責めるための証拠にしようとしている。
僕はパニックに陥ります。
そして一方で、本当に良かったと思います。
イーティンが居て、録音を発見してくれて本当に助かった。
迂闊な僕は、彼女の明敏さには何度も助けられているが――今度のことは、本当に大きい、と思います。
そして、そのイーティンの助力を無駄にせぬよう、僕は懸命に口を閉ざします。
そんな息詰まる状況を破ったのは――医師です。
日本語の分からない彼は、状況をまるで把握出来ず、どういうことなんだと中国語で尋ねます。
岩城と奥さんは、英語は堪能ですが、中国語は殆ど理解出来ません。
イーティンだけが、彼女が勝手に会話を録音しようとしているから止めようとしている、と答えます。
医師は頷くと、岩城の奥さんに向かってエイドで、それは止めなさい、と言います。
――いいえ、止めません。
岩城の奥さんは、医師に向かってもはっきりと言いました。
――どうしてですか?
医師の言葉に、岩城の奥さんは初めて笑顔を引っ込め、言いました。
――私は、岩城を守らなければならないからです。
それは、僕に対する、完全な宣戦布告であるように思えました。
僕はますます強く口を閉ざします。
やがて、医師の言葉に従って、ようやく岩城の妻はレコーダーを医師に提出しました。
それでも、イーティンは言葉を緩めません。
医師に向かって言います。
――他にも録音の機械があるかも知れない。彼女を退出させて下さい。
医師はそれに同意をすると、岩城の奥さんに向かい、部屋から退出するように言いました。
すると岩城の奥さんは、笑顔になり言いました。
――分かりました、私は退出します。
――でも、一つだけ条件があります。
条件? 僕は怯えます。
――私だけでなく、イーティンさんも退出させて下さい。
は? 僕は戸惑いました。
僕ならまだしも――何故イーティンに退出の必要がある?
理由がさっぱりわかりません。
自分がいなくなると、岩城一人に対して僕達は二人になる――劣勢になる、とでも心配したのでしょうか。
おそらく自身も良く分からなかったのでしょうが、このままでは埒があかないと思ったのでしょう。
イーティンはあっさり頷くと、岩城の妻に続いて、部屋を出ていってしまいました。
部屋の中には、医師と岩城と僕だけが残されました。
雑音はなくなりましたが――けれども、それで事態が動くことはありませんでした。
岩城は、自分が自殺未遂を起こした時のことを話し終えると、もう話すべきことをなくしたかのように、無表情なままで黙ってしまいました。
そして勿論、僕にも話せることなんてない。
僕には、良い話も、悪い話も、何も出来ない。
もし僕が、こういう状況で、何かをうまく話せるような人間であれば――岩城をここまで追い込んではいなかったでしょう。
そして、同時に。
僕自身も、ここに追い込まれてはいなかったでしょう。
岩城は俯き、僕も俯き。
日本語の分からない医師は、僕達を交互に眺めるだけ。
台北一の大病院の、精神科の中の一室。
沈黙が支配する中、時間だけが無駄に過ぎて行きました。
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