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北インドの生霊 その① 【旅のこぼれ話】

 三十年ほど前の話です。

 大学の夏休み、初めてのインド旅、ニューデリー到着初日、昼過ぎ。
 繁華街の中で見つけたひどく安いゲストハウスに、僕は足を踏み入れました。

 その部屋には、窓の一つもなく。
 空調と言えば、天井に取り付けられた、ミシミシ音を立てながらゆっくり回る、幾つかのファンだけ。

 そんな中に、十人以上の旅行者が押し込められている。

 体温を超す気温、肌にまとわりつくような湿気。
 ゴミだらけの床、埃だらけの壁、染みだらけの天井。

 そんな部屋のベッドの上で、昼間からゴロゴロしている旅行者達。
 そして、彼らの多くの口から吐き出される、白い煙――大麻の香り。


 二十歳過ぎの僕は、その部屋を見た途端、ひどく怖くなり。
 慌てて逃げ出そうとしましたが。

 こういう環境を経験するために――軟弱な自分を鍛える為に、わざわざインドくんだりまでやって来たのだ。
 最初から逃げ出してどうするんだ、と。

 それに、どうせ一日二日のこと。
 それだけ我慢したら、次の街に移るだけのこと。


 若く、体力・気力の有り余っていた僕は、そう自分に言い聞かせて、その阿片窟のような宿にチェックインしたのでした。

 すると、早速。
 隣のベッドの白人が話しかけてきます。
 
 大麻タバコを燻らせながら、細い細い体をくねらせながら、タトゥーだらけの腕を伸ばして。

 怯えて身構える僕を他所に。

 彼は、僕のベッドのシーツがひどく汚れているのを指摘すると、さっさと隣の部屋――客の入っていないシングルルームに行き、そこのベッドから勝手にシーツをはぎとり、僕のベッドに敷いてくれました。

 見た目よりは親切だな、とは思いますが、怖いのは変わらない。僕には、小声でサンキューと言うことしか出来ません。

 そんな僕を他所に、そのドイツ人は、自分がインドに来て三年になること、もうお金がないこと、けれどもじきに彼女がお金を持ってきてくれることなどを語ります。

 凄い旅をしているな、と思いますが。
 僕は、小さく頷くだけにとどめます。

 と、そんな時、斜め向かいのベッドに居た先客が、僕に近づいてきて、日本人ですかと日本語で声をかけて来ます。
 見ると、僕と同じような年ごろの日本人男性で。
 話してみると、トオルと言う名の彼は、僕と同じような時にインドに到着し、僕と同じような旅の経験値しかなく、僕と同じように不安いっぱいで、かつ僕と同じような日程、ルートで、北インド旅行を計画していることが分かります。

 これは、いい道連れになるのではないか。

 一人旅をしようと意気込んでインドまで来たくせに、早くも心細さと孤独を覚えていた僕は、そう思い。

 勢い込んで、トオルと言葉を交わします。

 そして、トオルと話し合っている間も、何かと割って入ろうとするドイツ人から、離れるという目的もあって。
 僕はトオルを誘い、街に食事に出かけました。

 その後、僕達はデリーの街を観光し。
 翌日の列車のチケットを揃って取り。
 夜遅くに宿に戻って来ました。

 とりあえず、道連れが出来たことに満足しながら。

 疲れ切った僕は、水シャワーを浴びて、すぐに眠りに就きました。


 けれども。
 すぐに目を覚まします。

 部屋中に、うめき声とも溜息ともつかぬ音が満ちている。

 酷い暑さ、湿気、そして暗闇。
 何が起こったのか分からず、呆然としていると。

 ――停電だ。
 ドイツ人の声がします。

 そう言われて、ようやく事態を理解します。
 停電など、インドでは良くある話。

 どうせ眠るのだから関係ない、と一旦思ったのですが。
 すぐに、そうでないことに気付きます。
 
 窓がない部屋に大勢の人、そして動かなくなったファン。
 あっという間に、部屋はサウナのような状態になったのです。

 暑くてたまらない。
 とてもではないが、眠れるような状況ではありません。

 体は疲れ切っているのに。
 明日早朝、出発なのに。

 これは酷い、僕もうめき声をあげます。

 と、誰かが懐中電灯をつけ、歩き始めたかと思うと。
 室内の人達が、その明かりに続いてぞろぞろと動き出し。
 皆、外へ出て行きます。

 ――皆、屋上に行くみたいですよ。

 トオルがそう言いながら出て行きます。
 僕も急いでベッドから起き上がり、彼らの後に続いました。


 屋上では、部屋の旅行者達が車座になり、早速大麻を吸い交わし始めています。

 そこに加わりたい、と思いはしたものの。
 彼らに交じって、英語で会話をしながら大麻を吸う――そんなことが出来る勇気など、僕にある筈もなく。

 結局また、トオルと共に、彼らとは少し離れたところに腰掛けて、ポツポツと会話をします。

 屋上は、室内よりは多少涼しくはあったものの、その代わりに――そこには、無数の蚊がいます。

 暗闇の中で、それを潰すことなど出来る筈もなく。
 彼らは嬉々として、無抵抗な僕達に襲い掛かって来ます。
 
 とても寛げるような場所ではありません。


 それでも、真っ暗の真夜中、他に行ける場所などある筈もありません。
 
 暑さ、湿気、痒さ、疲労、眠気。
 五重苦の中、トオルとの会話も盛り上がる筈もなく。
 言葉も途切れがちになります。

 時間は過ぎて行く。
 眠れる時間が減って行く。

 やっぱり、こんな宿には泊まるべきではなかった。
 初日ぐらいはいいホテルでぐっすり眠るべきだった。
 いや、でもそうしていたら、トオルとも出会えず、明日一人で移動しなければならなかったのか。

 じゃあ、やっぱりここでいいのか、こういうトラブルも旅の醍醐味か。

 そんなことを思っていると。

 不意に、周囲が明るくなりました。

 ようやく停電が終わったのです。

 ――これで、眠れる。
 僕は大いにホッとして。
 トオルや他の旅行者達と共に、部屋に戻ります。

 僕は急いで、ベッドに倒れ込むように横になり。
 少しでも早く眠ろうと、目を閉じます。

 ――ところが。

 その途端聞こえた鋭い声に、僕は驚いて目を覚ましました。

 斜め向かいのベッドの横、トオルが蒼白な顔をしています。

 彼は、バッグの中を見て、足元を見て、ベッドの下を見て、ベッドの周りを見て――僕を見て、言いました。

 ――ありません。

 ――え? 何が?

 ――貴重品袋が。

 トオルは震える声で言いました。

 ――お金とか、パスポートとか入った袋が……どこにもありません。 

 僕は呆然としました。

 
 


 

  


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