精神科でも自分を守ることしかしないADHD 【ADHDは荒野を目指す】
6-27.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。
けれども、ADHDである僕には、会社運営などうまく出来ません。特に人事は壊滅的で、オフィス内にはギスギスした雰囲気が漂い、辞めて行く社員の多い。
その上、台湾人の妻とも関係がうまく行かず、結局離婚。
そんな状況でも、肥大化した会社を支えるために、僕は週休ゼロ日で働き続けなければならず――肉体的にも精神的にも、どんどん疲弊して行きます。
それでも、頼れる旧友・岩城が入社して、リーダーシップを発揮。これで僕も一息をつける――と思っていましたが。
入社僅か三か月、その岩城が、社内のトイレで自殺をはかってしまうのです。
幸い、怪我はそれほど深刻なものではなく、一日で退院できる、ということだったのですが。
その日の夜、会社の台湾人経理・イーティンの元に、病院から電話がかかってきました。
――体はすぐに回復したが、精神状態が不安定ということで、精神科に入院することになりました。
イーティンからそう聞かさた僕は、まあそうなるのだろうな、と僕は思います。
こういうケースでは、再発を防ぐことが最も大事なのでしょう。
翌日より、岩城不在の中、仕事が始まります。
講師は勿論多少の動揺はありましたが、生徒や保護者の間からは、目に見えるような反応はありませんでした。
どうやら、『岩城先生が交通事故に遭った』という噂になっているよう。
それを否定も肯定もせずにやり過ごす内に、そういう噂も沈静化しました。
――事件があったのが、向かいのB予備校が開いていない時間で、本当に良かったですよ。
イーティンがしみじみといった感じでそう言いました。
確かに、と僕は頷きます。
歩道に転がり出た岩城の姿を見ていれば、ライバルのB予備校は、それを良いように利用した可能性があります――あのべいしゃん塾は危ない場所だ、と触れ回ったかも知れない。
勿論それはうがった見方であるかも知れませんが――とにかく、こんなトラブルを知られて得することは何もない。
不幸中の幸いだ、と僕は思います。
入院から三日目、岩城の担当医がイーティンに電話をかけて来ました。
岩城の治療にあたって、上司であり友人である僕の手助けが必要だと言います。
勿論否やはありません。
その翌日の午前、僕は通訳代わりのインチーを伴って、栄総病院を訪れました。
精神科に入るのは初めてです、とイーティンは言います。
勿論僕も初めてで、少し緊張しながら歩を進めます。
精神科の入り口は、二重の扉になっていました。
外の扉の前にインターホンがあり、そこで来意を告げると、扉と扉の間に通される。
そこで身体検査をされ、危険だから、と傘を取り上げられます。
少し緊張をしながら、開いた内扉の向こうへと足を踏み入れます。
そこはロビーになっていて、多くの人がソファに座ったりテレビを見たりしている。
患者か見舞客か分かりませんが、どちらにしても、普通の病棟と何ら違いはない。
僕達は、そのロビーを抜けて、奥の部屋へと通されました。
そこでは、医師と看護師が待ち構えていました。
医師は僕に尋ねます――岩城に何か問題はなかったか、と。
僕は答えます。
毎夜のように電話をかけてきていたこと。不眠を訴えていたこと。でも、それ以外には、苦しいといった内容を口にはしていなかったこと。だから自分は、そんなに追い詰められているとは気付かなかったこと。
そう話しながら、一方で、僕は自分のことしか考えていないな、と思います。
僕が恐れているのは、自分がパワハラ上司だと認定されること、それだけです。
これは取り調べではないし、そもそもここは警察ではなく病院なのです。どういうことを発言しても良い場所なのに――僕はただ、自分を守るための発言だけをしている。
とはいえ。
僕が、彼の苦しさに気付いてはいても、自殺を試みるほどの状況だと思っていなかったのは事実です。
だから、ただ、分からない、と繰り返すだけです。
やがて医師は言いました。
――じゃあ、岩城と直接話してくれますか?
僕は緊張しながらも、頷きます。
看護師が出て行き、暫くして、扉が開きました。
岩城とその奥さんが入って来ます。
奥さんは、いつものように微笑んで頭を下げます。
――お世話になっております。
僕も急いで頭を下げます。
岩城は、と言うと。
――茫洋とした表情です。
辛そうでもないが、元気そうでもない。
精神安定剤か何かを服用しているのかな、と思いますが、勿論確かめることは出来ません。
岩城は、奥さんと並んで僕の向かいのソファーに座りました。
そして、座るや否や、突然話を始めます。
ポツポツと、けれどもしっかりした語調で。
――朝、いつものように出社して、仕事をしようとしたんだけど。
――突然、何かわけが分からなくなって。
――何をすればいいのか、どこへ行けばいいのか、そしてついには自分が誰なのかさえ分からなくなって。
――それで、立ち上がって、オフィスの中をただただ歩き回っていた。
――そのうちに、何も見えず何も聞こえなくなった。
――怖くてたまらなかった。
――けれどもその時、突然、デスクの上のピンク色のカッターだけが見えてきた。
――それに気付いた瞬間、俺は死ななければならないと思った。
――そして俺はそのカッターを手に取り、トイレに向かい、首筋を切った。
――血が大量に流れだした。
――俺は死ぬんだと思って、指でメッセージを書いた。
――けれども、それからどれだけ経っても意識は途切れない。
――そして、不意に思った。こんな場所で死にたくない、と。
――そして俺は立ち上がって、トイレを出た……。
岩城は不意にそこで言葉を切ります。
僕は黙って俯きます。
静寂が満ちますが――僕は、何を言えば良いのか、全く分からない。
――辛かっただろうな、苦しかっただろうな、とか。
――気付いてあげられなくて、申し訳なかった、とか。
――そんなことを忘れて、元気をだせよ、とか。
――家族がいるのに自殺をしようとするなんて馬鹿だ、とか。
そんな言葉が頭に浮かびますが――全部、借り物のセリフでしかない。
十代の頃から、自殺したいと強烈に思い続け、ただそれを実行する勇気がないままに、いつしかそんな鋭い精神も鈍麻してしまい、今日まで生きて来ただけの、僕に。
彼を慰めることも、彼に謝罪することも、彼を励ますことも、彼を非難することも、出来る筈がありません。
そして勿論、借り物の言葉をそれっぽく口に出来る程、僕は大人ではない。
それにそもそも、そういう言葉が、岩城にどういう反応を引き起こすか分からない。
岩城が激高したり、より傷ついたりしたら――そして、それが僕の責任だとされたら……。
僕は、自分を守るために、黙っているしかありませんでした。
――それでも僕は、友人であり、社長でもあるのです。
だから、立場上、何かを言わねばならないと思い。
僕は、口を開きます。
――とにかく、塾は何とか回しているので、今は仕事のことなんて気にせず、ゆっくり。
そんな僕の言葉の途中、突然。
横から、鋭い声が上がります。
――録音していませんか?
イーティンの声です。
僕は驚いて言葉を切り、イーティンを眺め、そして彼女の視線の先を見つめます。
そこには、小さな機械を握りしめる、岩城の奥さんの姿がありました。
――録音していますね。やめてください。
イーティンは、岩城の奥さんを激しく睨みつけます。
岩城の奥さんは、イーティンを見返します。
――笑顔で。
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