無能なのに勉強だけは出来た発達障害男性が、50歳にしてようやく理解した「自分の能力の正体」 その① 【ADHDは高学歴を目指せ】
35.
僕は、勉強が出来ました。
灘中学に入学できたのは、親の力のお陰だったにしても。
その後六年間、ほとんど勉強せず、文系クラスに属し、塾や予備校に一切通わず、独学しかしていないのにもかかわらず。
京都大学の理系学部に合格したのです。
当然のことながら、僕は、「自分は天才だ」と思いました。
ところが。
実際の生活では、「天才」どころか、人並み以下の失敗ばかり。
学生時代は落ちこぼれ続け、周囲に馬鹿にされ続け。
一人暮らしをすれば、部屋はゴミだらけ、電気ガス水道はしょっちゅう止められ。
就職した会社からは、馬鹿にされてすぐにドロップアウトし。
バックパッカーとしてアフリカまでたどり着くも、最後は睡眠薬強盗に全て奪われ。
妻には浮気の末にあっさり出て行かれ。
台湾で作った会社も資産も、人事管理、金銭管理が一切出来なかったせいで、狡猾な部下に全て奪われた。
行動力と幸運だけはあるお陰で、それなりに成功はすることはありましたが、結局全て、「無能」としかいいようのない終わり方をしています。
そしてそんな、壮絶な失敗経験を積むうちに。
最初のうちに抱いていた、「勉強は出来るのに、他のことに関しては何故こんなに能力が低いのだろう?」という疑問も。
次第に、「こんなに能力が低いのに、何故勉強だけは出来たのだろう?」という形に変わって行きました。
「勉強が出来る」と一言で表しても。
「勉強」というのは、様々な要素があるものです。
文系教科と理系教科で、必要な能力は異なるものだし。
同じ理系教科同士でも、化学と物理はまるで違う世界だし、生物と地学、そして数学、それぞれ性質がずいぶん違う。
数学という単一教科の中でも、代数と幾何で、異なる部分は多い。
そんな、大変なものなのに。
僕は、「高校範囲までなら」という但し書きはつきますが、文系理系を問わず、ほぼ全教科、人並み以上に「出来る」のです。
文系でも理系でも、半年穂ほどの勉強で、旧帝国大学に合格しているのです。
仕事でも、日常生活でも、これだけ無能であるのにも関わらず。
本当に、不思議なことです。
その疑問を抱いたまま、それでも必死に動き続けて。
失敗をし続けて。
コロナの問題等もあり、台湾の会社を畳み、日本に戻り。
随分と気持ちに余裕が出来るようになり。
あれこれつらつらと考えている内に。
ようやく僕は、「自分の能力の正体」を、理解したのです。
「ほとんどの教科の勉強が出来る」と書いてきましたが。
それぞれ、それが「出来る」ようになった経緯は、大きく違います。
まず、国語・世界史・日本史に関しては。
言うまでもなく、「読書」以外に娯楽の許されなかった子供時代のお陰。
その後も、失敗続きの現実から逃避するために、読書の習慣は失われることがなく。
特に、時代小説や歴史小説が好きだったこともあります。
「楽しむ勉強」に優る勉強など、ありません。
国語や歴史が得意になったのは、当然のことです。
さらに、「生物」「化学」「物理」「地学」等に関しても。
僕は一時期、「SF小説」が大好きで。
それも、日本で主流の「ファンタジー小説」と区別のつかないようなものではなく、アメリカの「ハードSF」と言われる分野=「厳密な科学的合理性を要求するもの」にはまりこみ。
アシモフ、ハインライン、クラーク、レム、ホーガンなどの本を、細かいところまで読み漁り、理解しようと努めました。
その結果、一切勉強をしなかった期間にも、「古代生物」「宇宙物理」などへのある程度の知識を蓄積させていました。
その結果、こういう教科もまた、ある程度は「楽しみながら」勉強することが出来たのです。
英語・地理、或いは政治経済に関しては。
「楽しく」はありませんでしたし、実際、学生時代はひどい出来でしたが。
大人になってから、独力で外国生活を始めたことにより。
「生活するため」、もっと大げさに言えば「生き抜くため」に、強くなるしかありませんでした。
ここまでは、他の人にも良くある話だと思います。
やはり「僕の能力」の中で特異なのは、「数学」が出来ること。
特に、京都大学の入試において成功したのは、数学の試験にて、ほとんどの問題で「完答」出来た、という要素が大きい。
この「数学」が得意である理由に関しては。
「全て、答えが用意されている世界だからだ」と、何度か書いてきました。
すぐにミスをする、ADHDという生き物。
しかし、数学(特に高校範囲までのもの)に関しては、必ず「正解」が準備されており。
どんなルートを辿ろうが、計算ミスや等の「ルール違反」をしない限り、必ずそこに行き着くし。
そこに行き着けない場合は、どこかで「ルール違反」をしているだけ。
綿密に見直せば、かならずその違反箇所を見つけ出すことが出来る。
他教科では、「三単現のsをつけ忘れた」「『必至』を『必死』と書いてしまった」等のミスが出た際。
どれだけ注意深く見直したところで、ADHDには、その全てを防ぐことなど、絶対に不可能ですが。
数学では、多くの場合、「検算」を繰り返すことによって、それが可能になるのです。(不可能な分野もありますが)
だからこれまで僕は、「数学はADHDに合っている」と考えてきましたし、そう確信しているのですが。
ただ、それでも。
僕が出来るのは、「数学」だけではなく。
ミスを防ぎようのない他教科でも、ただ「楽しめる」からでは片づけられないような、高得点を取れたことが何度もあります。
普段、これだけ無能であるくせに。
このギャップについて、さらに考えている内に。
近日になって、ようやく、「無能なのに勉強だけは出来たという、自分の能力の正体」に気づいた――というか、的確に表す言葉を思いついたのです。
それは。
「間違いを見つけ出す能力」というもの。
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