見出し画像

不審な台湾人一家が侵入してくる 【ADHDは荒野を目指す】

 5-2.

 台北に移住した僕は、様々な困難を乗り越え、日本人子女向け進学塾を作り上げます。
 そして、多くの生徒が集まる最高のスタートを切りますが――突然、五名もの退塾者を出してしまうのです。

 人数制限を設けていた為、塾生は全てで二十数名しかいません。
 その内五名もの退塾者が出たのですから、それは途轍もない痛手です。

 しかも、未だに営業許可が下りていないため、それまで一切授業料請求をしていないのです。

 その五人に関しては、ただ無料で一か月を過ごさせただけ。

 勿論、サービス業にはそういう損失はよくある話ですが――それにしても、残念です。

 しかも、彼らの退塾理由を聞いて、その無念は深くなります。

 十分予想出来たことですが、やはりH舎の差し金でした。
 元々H舎の生徒だった彼らの家庭に、H舎から何度も何度も電話が入ったのです。

 ――あいつの塾はまだ営業許可も得ていない。
 ――だからいずれ、あいつは警察に捕まり、あいつの塾は潰れる。
 ――そうなってからあなた達がH舎に戻りたいといっても、こちらは絶対に受け入れない。
 ――でも、今H舎に戻って来るのなら、仕方ないから受け入れてあげよう。
 ――もう一度、入塾料は支払ってくれさえすれば。

 そんな脅迫めいた言葉に、その保護者達は容易に屈したのです。

 仕方がありません。 
 台北には、他にまともな日本人向け進学塾が存在しないのです。
 H舎の言う通り、僕の塾が潰されてしまうと、確かに彼らに行き場はなくなってします――受験勉強が、かなり困難になってしまいます。

 H舎に戻ろう、という保護者達の決断を、批判することは出来ません。

 一にも二にも、僕の塾にはまだ営業許可が下りていないというのがネックになっているのです。
 とにかく早く許可が下りることを祈りつつ、その五人については諦めるしかありませんでした。

 ただ、退塾者が五人にとどまった――というのは、ある意味、嬉しいことでした。
 H舎から移って来た生徒は、他にも十人ほどいます。
 そして彼らは皆、H舎からの脅しを受けている。

 勝手に家にまで来られた生徒もいるという。

 それでも、脅しに屈しなかったということは、ある意味彼らは、僕との心中を選んだと言っても良い。

 まだ三十二歳の若造ADHDである僕が作った、社員僕だけの、営業許可すらない塾を、彼らは選んだのです。

 それに感謝して、彼らをしっかり指導しなければ――そして、退塾者達が後悔するぐらいの結果を残させなければ。
 僕はそう、強く思います。

 けれども、物事は全て順調には行かない。


 ――退塾者がでた翌週には、また別の事件が起こります。


 その日夕方、授業が始まったばかりのタイミングで、突然扉がノックされます。

 それは奇妙なことでした。
 塾があるのはマンションの二階です。
 そしてマンションの入り口には、オートロックの扉がある。

 生徒やその保護者は皆、マンションの入り口に設置したカメラ付きインターホンを押す。カメラでその顔を確認した僕が、マンション入り口の扉と、塾の扉の双方を開けて、彼らを迎え入れるのです。

 台湾は比較的治安が良いとはいえ、そこは外国。しかも客は子供。それぐらいの安全管理は、絶対に必要です。

 それなのにこの時、その一階のインターフォンを介さず、二階にいる塾の入り口に来客が現れたのです。

 僕は不思議に思いますが――丁度その時間帯、コピー機の業者が来ることになっていました。
 住民が帰宅するタイミングで、業者は一緒に入り口を抜けたのだろう。

 そう思った僕は、生徒に問題を解いておくよう指示して、急いで入口に向かいます。

 扉を開けると、そこにいたのは、三十代とおぼしき男女と、小学生低学年あたりの女の子二人です。
 どう見ても、コピー機の業者ではない。

 塾を探している人でもない――日本人ではない。

 何ですか、と僕が尋ねると、女性が中国語で言いました。

 ――自分達は、子供に日本語を学ばせたい。留学も考えている。
 ――だから、この教室の指導について教えて欲しい。

 僕は急いで笑顔になり、言います。
 ――ここは日本人子女向けの塾です。
 ――日本の学校を受験するための勉強を教えているのであって、日本語を教えているのではありません。
 ――申し訳ありませんが、お引き取り下さい。

 けれども。

 四人は、引き下がりません。
 ――自分達は、子供に日本語を学ばせたい。留学も考えている。
 ――だから、この教室の指導について教えて欲しい。

 まずい、と僕は思います。
 僕の中国語が下手過ぎて、伝わっていないのだ。

 僕はもう一度、ゆっくりと丁寧に話します。
 ――ここは日本人子女向けの塾で、日本語は教えていない。

 女性は言います。
 ――自分達は、子供に日本語を学ばせたい。留学も考えている。
 ――だから、この教室の指導について教えて欲しい。

 おかしい。
 僕はようやく思います。

 僕の言葉が理解出来ないのなら、聞き返せば良いだけ。
 それなのにこの女性は、同じ内容をただ繰り返している。

 つまり僕の言葉は理解している。
 ここが台湾人を対象にした日本語教室ではないことを理解している。
 でも、日本語を学びたいと言い続けている。

 絶対におかしい。


 そう思って改めて四人を眺めると――大人二人の表情には笑顔がなく、子供二人は俯いている。

 様々なことが気になる癖に、冷静な観察力も思考力も持ち合わせない僕すが、流石に、この四人が異様であることは確信出来ました。


 ――でも。

 四人の目的は、まるで分かりません。

 もしかしたら、本当に勘違いしている人かもしれない――その可能性はなくはない。
 無下に追い返したりすれば、悪い評判が立つ恐れがある――日本人のみを対象とした会社であるとはいえ、地元に嫌われたら商売は出来ない。
 丁寧に相手をするしかない。

 とはいえ、そんな怪しい人達を、子供達がいる場所に入れる訳には行かない。
 そもそも今は授業中なのです。
 すぐに帰ってもらう以外の選択肢は、ありません。

 ――とにかく、今は忙しいので、帰ってください。
 ――もし色々話をしたいのなら、後で電話を下さい。

 そう言って、名刺を渡そうとします。
 しかし、女性は受け取りません――そして言います。

 ――自分達は、子供に日本語を学ばせたい。留学も考えている。
 ――だから、この教室の指導について教えて欲しい。

 何だこいつは。
 少しおかしい人なのか?

 ――自分達は、子供に日本語を学ばせたい。留学も考えている。
 ――だから、この教室の指導について教えて欲しい。

 ようやく、苛立ちが湧いてきました。
 既に貴重な数分が空費されています。
 もうこれ以上彼らの相手をしている訳には行きません。

 とにかく、と僕は入り口の中央に仁王立ちになりました。

 ――こちらは授業中なのです、帰ってください。

 僕は気は小さいが、ガタイだけは良い。これで彼らは、すり抜けることは勿論、押しのけて通ることは出来ない。

 と、男が、いきなり口を開きました。

 ――じゃあ、トイレだけ貸してください。

 ん?
 意外な言葉に、僕は戸惑います。

 ――この子がトイレに行きたいと言っているので。

 どうしよう、僕はまごつきます。
 でも、流石にこれを断るのは、イメージが悪すぎる。
 近くにトイレが借りれそうなコンビニでもあればよいのですが――ここは住宅地、そんな店も思いつかない。
 それに、それは小さな女の子です――中に入れても問題はなさそう。

 ――じゃあ、子供だけなら。
 ――トイレは、正面の扉の中だから、そこに行くだけ。

 そう言って僕は体をずらし、子供が通ることの出来るスペースを作りました。
 親が早口で何かが良い、子供が塾の中に入ります――二人とも。

 二人とも? 二人とも同時にトイレ?
 戸惑っている内に、彼ら二人は、一緒にトイレに入って行きます。

 おかしい。
 でも、トイレを開けて少女たちを引っ張り出すことなど出来ない。

 どうしよう、僕が戸惑った、その時。
 四人の背後で、エレベーターの扉が現れ、人が現れました。

 見覚えがある顔――ああ、コピー機の業者だ、と気付きます。
 そう、レンタルしているコピー機が不調であったために、修理のお願いをしていたのです。

 僕は急いで彼を迎え入れます。
 そしてコピー機を指さし、具合が悪いことを説明し始めました。

 僕はADHDです。
 その瞬間、完全に意識から抜けてしまったのです――怪しげな男女のことが。

 コピー機の男性に説明を終え、ふと物音に気付き、僕が振り向くと。

 男女が塾の中に入り込んで居ました。

 女性は、勝手に部屋の扉を開けている――僕と妻が暮らす部屋の扉を。

 そして男は、一直線に奥に進んで行きます。

 ――生徒達がいる、教室へと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?