社員や友人を犠牲にして、ADHD社長が得たもの 【ADHDは荒野を目指す】
6-39.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。
けれども、創業より九年後、経理の台湾人女性・イーティンが、会社の資金・三千万円を横領していたことが発覚。
激しい怒りを覚えながらも、どうにかそのお金を取り返そうとしますが。
突然、イーティンの母であり、僕の会社の名義上のオーナーであるフォンチュの名前で、会社の閉鎖と、僕の解雇を伝えるメールが送られて来たのです。
慌てて会社に駆け付けますが、イーティンは僕を睨みつけ、警察を呼びます。
そして警察官が現れた途端、彼女は激しく泣き始めるのです。
僕があっけにとられる中。
イーティンは、現れた警察官に向かって激しい語調で話し始めました。
早口の、涙交じりの中国語です。
僕には、殆ど聞き取れない。
やがて警察官がイーティンを押しとどめ、僕の方を向いて何かを言おうとしましたが――その途端、イーティンがまた勢いよく喋り始める。
僕には何も出来ません。
ただその姿を眺めているだけ。
――それでも。
流石に、暫くして気付きます。
今、イーティンは、僕を告発しているのではないか。
――僕が犯罪者であると警察官に訴えているのではないか。
そう思った途端、恐怖心に包まれます。
確かに、表向きはその通り――会社を解雇された男性が、怒って、強引に会社に押し入ろうとしているところなのです。
そしてさらにまずいのは――万一、そういう疑いで拘留をされた場合、僕にはちゃんと弁明が出来ないこと。
不自由な中国語で、こんな複雑な状況を説明できる筈もない。
そして拘留されて時間を失っている間に、会社は本当に潰されてしまう……。
――もういい、と僕は咄嗟に口にします。
――もう大丈夫、会社には入らない。
そう言うと、僕はくるりと振り向き、速足で歩き出しました。
警察官に呼び止められるかも――と怯えていましたが、幸い、そういうことはなく、角を曲がることが出来ました。
少し、落ち着きましたが。
それでも僕は足を止めず、歩き続けながら。
イーティンの、こちらを激しく睨みつける目つきと、警官が現れた途端に溢れ出た涙を、思い浮かべます。
そして僕は、大きな息を吐いて、思いました。
――やっぱりな、と。
そう。
僕にも、薄々は分かっていたのです。
イーティンの、正体は。
――長く居つかずに、次々辞めて行く社員のこと。
――僕を「金の亡者だ」と罵って去っていった、最古参社員の谷沢のこと。
――精神を病んで自殺未遂を起こした、旧友の岩城のこと。
――塾に対してとにかく敵意を向けて来た、岩城の奥さんのこと。
そういうことがあるたびに、僕は、自分の管理能力不足に情けなさを感じつつも。
でも、僕はこれだけ働いていて、そして社員に対しても出来るだけ待遇を良くしているのに、感謝されないことはともかくとして、どうして恨まれなければいけないんだ、という憤りも覚え。
ますます彼らとの距離を取ってしまっていたのですが。
でも、ある時から、思うようになっていたのです。
もし――イーティンが原因であったとすれば?
イーティンは、ただの経理。
病弱な若い女性。
他の社員と喋ることも少なく、関わることなど殆どない。
――ただ、社長室に入って来て、他の社員の悪口を僕に告げるだけ。
脱税をしようとしたりはするが、それも塾の利益を考えてのこと。
叱られたら、すぐに辞める。
会社や、社員に対して、何の影響力も持たない。
ずっと、そういう存在だったのですが。
――でも、いつしか、彼女が変質をしてしまっていたとしたら?
僕が教室や社長室にこもっている間に。
オフィスにいるイーティンが、いつも僕に語っているような悪口を、社員達に直接告げていた――としたら。
僕は、社員達に対して、イーティンについて、何の説明もしていませんでしたが。
そのふざけた勤務態度と、それに対して僕が一切文句を言わないことを見ていた社員達は、彼女が会社にとって何か特別な存在であることを、確実に気付いていたでしょう。
そのイーティンに言われる言葉は、社員達にとって、軽いものではなかったでしょう。
精神的に追い込まれていったとしても、不思議ではない。
もしかしたら、イーティンは、そういう人間なのではないか。
人を退職に追いやっても、自殺に追いやっても、何ら気にしない、そんな人なのではないか、と。
そう、思ってはいたのです。
いや――確信も、していたのです。
岩城の奥さんが、ふと漏らした言葉のために。
――うちの岩城は、イーティンさんのカッターで首を切ったのですよ、という。
ずっと笑顔だった彼女が、強い口調で言ったその言葉が意味することは、いかに愚鈍な僕であっても、理解は出来ていたのです。
イーティンが、最悪の人間であることを。
他人を退職においやろうとも、自殺未遂においやろうとも、平気な人間であることを。
でも。
僕は、一切手を打たなかった。
会社の経理を知る唯一の存在であり、僕の味方をしてくれる唯一の存在である彼女が、そんな人間であることを――直視する勇気が、なかったのです。
彼女と喧嘩になることが――そして面倒なことになることが、怖くてならなかったのです。
そして僕は、彼女を自由なままにしておき――様々なトラブルがあっても、その原因を突き止めようとしなかった。
自分を守るため――目の前の安楽を守るためだけに、彼女を守った。
社員や友人が、犠牲になっても。
またすぐにトラブルが起こることが、分かっていても。
そして、その果てに。
僕自身が、その悪意の対象になってしまい。
全てを奪われても、それでもまだ、彼女を信じようとしてしまい。
ついには、警察からも逃げなければならない――そんな事態になってしまったのです。
僕は、余りに愚かでした。
――でも。
歩き続けながら、僕は思います。
――まだ、終わりではない。
会社は、僕の物ではなかったが、彼女達母娘だけのものでもない。
社員のものでも、あるのです。
そして社員の中には、小迫がいるのです。
中国語が流暢で、近隣に多くの友人を持ち、ほぼ独力で日本語教室を運営している、僕よりもずっと有能な人物が。
彼にとっても、会社の閉鎖は大事件です――収入の手段も、ビザもなくす。生徒への信頼もなくす。最悪の事態です。
何があっても、閉鎖を止めようとするでしょう。
一緒に戦うのに、これほど心強い味方はいません。
僕はスマートフォンを取り出し、小迫に電話を掛けようとします。
――けれども。
その電話は、つながらないのです。
どれだけ掛けなおしても。
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