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ギルギットの紙包み その① 【旅のこぼれ話】

 パキスタン北部、ギルギットという小さな街で、僕は乗合ワゴンを下りました。

 隣町から約三時間、それ程の長旅ではありませんでしたが、客を詰め込めるだけ詰め込んだワゴンの車内は、お世辞にも快適な空間とは言えず、僕は体の節々に痛みを覚えていました。

 元々ぼんやりしたタチの僕は、その痛みのせいで余計に意識散漫になってしまっていたのでしょう。

 ワゴンを下り、歩き出してから十分ほど経って。
 僕は、自分がおかしな場所を歩いていることに気付きました。

 スマートフォンなどない時代、しかもガイドブックはおろか地図だって持っていない旅行者だったとはいえ。

 その頃旅をしていたのは、田舎町です。
 そういう場所では、看板を探すか、住民に尋ねるかすれば、安くて手頃な宿にたどりつくのは、容易なことで。
 宿が見つかれば、そこの従業員に尋ねることで、食堂や雑貨店などの在り処を知るのは、容易なことで。

 そうやって、その街での快適な日々を始めることは、容易なことなのですが。


 その時の僕は、周囲をしっかり観察することなく、適当に歩き始めたせいで。

 気付いた時には、人っ子一人いない、建物の一つもない、荒野の中の一本道を歩いていたのです。

 それでも。

 立ち止まって考える前に、とにかく動きだしてしまう、ADHDの僕です。

 このまま歩き続ければ、いずれは集落が現れるのだろう。
 少なくとも、道を聞くことの出来る住民に出会えるだろう。
 そう思ってさらに歩き続けたのですが。

 いつまで経っても、建物も人も見えてこない。

 ――そろそろ、引き返した方が良いのではないか。

 流石に、そう思い始めましたが。

 行動力だけはあるのに、決断力の乏しい僕は。
 そのまま、ダラダラと歩き続けてしまいます。


 けれども。

 やがて周囲が暗くなりはじめると同時に、周囲に街灯の一つもないことに気付き。

 流石に、足が止まります。
 このままでは、周囲が真っ暗になってしまう。

 見知らぬ街で、暗闇に一人きり。
 こんな恐ろしいことはない。

 僕は急いで背後を振り返り、急いで今来た道を引き返し始めました。


 けれども。
 体の痛みに加え、疲労も重なり。
 背負ったバックパックも軽くはない。
 足が棒のようになっています。

 それでも。
 周囲はどんどん暗くなる。
 停まる訳には行きません。

 僕は懸命に歩きます。

 それでも、中々街の明かりは見えてこない。

 闇は深くなる一方。

 どこかから、野良犬のものらしき声が聞こえてくる。

 これはまずい。
 気持ちは焦りますが。
 足は動かない。

 僕は汗びっしょりになりながら、ヨタヨタと歩を進めます。


 ――と、その時。

 前方に、車の明かりが見えました。
 こちらに向かって走って来るようです。

 途上国の人達の運転は、乱暴なことが多い。
 僕は道端に身を避け、通り過ぎるのを待つことにしました。

 ところが。
 その車は、僕の前で減速し。

 僕の横で、ぴたりと停まると。
 運転席の男性が、窓越しに話しかけて来るのです。

 ――旅行者か?
 ――道に迷ったのか?

 ――乗って行くか?

 警戒心が、一気に心を占めます。
 個人旅行者は、どういう時でもまずは自衛を考えなければならないのです。
 弱っている時に声を掛けて来る相手は、まず疑ってかからねばならない。

 昼間ならともかく、夜の近づく今、こんな話に乗ってはならない。

 そう思って、急いで首を横に振ろうとした時です。

 ようやく、僕は気付きました。
 その男、そして助手席の男性も、制服を着ていることに――警察官の制服を。
 良く見れば、車体にもPOLICEという文字が書かれている。

 僕は大いに安堵しました。

 勿論途上国では、警察官だって信用は出来ないものです。
 でも、ここは片田舎。
 しかも、イスラムの戒律の厳しい土地柄。

 治安の良さは折り紙付きなのです。

 僕は急いで身を乗り出し。
 道に迷ったこと、そして宿を探していることを告げます。

 警察官はウンウン頷くと。

 ――では、宿まで連れて行ってあげるから、車に乗って。

 僕は大いに喜び。
 大急ぎで、後部座席の扉を開けて、中に乗り込みます。

 助かった。
 そう思って、ホッとした瞬間。

 僕は、一つのことを思い出すと共に。
 背筋が凍るような思いを、浮かべるのです。


 今、僕のポケットの中には。

 他人に――特に警察には、絶対に見られてはならないものが、入っているのです。


 ――もし今、警察官に、身体検査をされれば。

 僕は、逮捕される。
 そして、牢屋に入れられる。

 僕は、震えあがり。
 強く思いました。

 ――あんなもの、受け取らなきゃよかった。

 僕は思い出します。

 今朝までいた、隣街の宿で。
 白い煙の向こうで、大口を開けて笑っていた、旅仲間の言葉を。 


 ――これ、餞別だから。
 ――ギルギットで滅茶苦茶役に立つから。
 ――向こうでは中々手に入らないから。

 そう言って僕に押し付けて来た、小さな紙包み。


 パトカーの後部座席で。
 ポケットの中に手を突っ込み。

 僕は震えます。

 その紙包み――恐らく大麻樹脂の入った、小さな紙包みを握りしめながら。

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