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部下の動きが読めないADHD社長 【ADHDは荒野を目指す】

 6-32.

 台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。

 けれども、ADHDである僕には、会社運営などうまく出来ません。特に人事は壊滅的で、オフィス内にはギスギスした雰囲気が漂い、辞めて行く社員の多い。
 その上、台湾人の妻とも関係がうまく行かず、結局離婚。

 そんな状況でも、肥大化した会社を支えるために、僕は週休ゼロ日で働き続けなければならず――肉体的にも精神的にも、どんどん疲弊して行きます。

 それでも、頼れる旧友・岩城が入社して、リーダーシップを発揮。これで僕も一息をつける――と思っていましたが。
 入社僅か三か月、その岩城が、社内のトイレで自殺未遂を起こし、そのまま退職する流れに。

 その一連の出来事の中で、僕はついに、数年後の塾の閉鎖を決意。
 ただ、併設していた日本語教室に関しては、部下の小迫に任せ、そのまま存続をさせる予定だったのですが。

 何故か、その日本語教室講師が次々辞めて行く。

 そしてある日、出社の途上、勤務最終日の女性日本語講師・田村から声を掛けられます。
 ――後で、社長室にうかがいます、と。

 何を言われるのだろう?
 どれだけ考えても、何の心当たりもない。

 そもそも僕は、自分の直属の部下である、塾部門の講師達とすら、ろくに話すことはないのです。
 ましてや、別部門である日本語講師とは、会話する機会さえほとんどない。

 ただ、田村に関しては、入社の際に提出した書類についてはよく覚えていました。

 それは、彼女の前職である、台北の某日本語教室から発行された源泉徴収票です。

 それに記されていた彼女の月給は、何か月にも渡って、十万円にも達しない物ばかりだったのです。
 酷い月には、三万円にもならない時があります。

 これは勿論、政府が定めた外国人労働者の最低保証給与を大きく下回っています。
 明らかに、法律違反です。

 けれども、その某日本語教室が、一切の誤魔化しなしにその徴収票を堂々と発行している以上、それを咎められずに済ませる、何らかの手法が存在するということでしょう。

 台湾人が経営する台湾の会社において、一人きりでやってくる若い日本人女性など、食い物にされる存在でしかありません。


 そんな前職での経験があったからか、給料はちゃんと貰える僕の会社にて、彼女は楽しく仕事をしているようでしたが。

 その彼女の、突然の退職と、唐突な挨拶予告。
 一体何を言われるのだろう? 僕は少し怯えます。

 そして僕の授業終了後、彼女は社長室を訪ねて来ました。

 今まで本当にお世話になりましたと言い、そして口ごもります。

 僕は緊張しながら次の言葉を待ちますが、彼女の口は中々開きません。

 先を促すことなど出来ない僕も黙っていると、田村はようやくゆっくりと口を開きました。

 ――私はとても許せないことがあります、と。

 何だろう?
 僕は彼女に一体何をしたのだろう?

 僕は必死に記憶を探りますが、何も見つからない。
 僕の奇妙な挙動に気付いたのか、少し慌てたように田村は言います。

 ――本当に社長には良くしていただいて、本当に感謝しています、と。

 感謝されるようなことは何もしていない――そもそも自分のことに必死で、彼女を含む一切の他人に対して、関わり合うことすら恐れているのだから――自覚はある僕は、急いで首を左右に振りました。


 そんな僕の反応に構わず、でも、田村は言いました。

 ――私は、あの人はどうしても許せません、だから辞めるのです。

 ああよかった、僕は恨まれていない。
 そう安堵した直後、ようやく彼女の言葉の意味を理解します。

 あの人? 僕はキョトンとしながら、急いで尋ねます。

 ――許せないって、誰のこと?

 僕は急いで尋ねるが返事はない。

 僕はまた急いで考えます。
 田村は日本語講師なのだから、やはりその対象は、日本語教室部門の誰かでしょう。
 恨むほどの感情を持つ相手となれば、同僚ではなく上司である可能性が高い――つまり、日本語教室主任の、小迫だということだろうか?

 でも、小迫はどう見ても明朗で穏やかな人間。恨まれるような言動をするとは思い難い。

 いや、でも、人は見かけによらないもの。僕には人を見る目などないし、やはり彼には何か裏があるのかも。

 僕がそんなことを懸命に考えている内に、田村は顔を上げて、いいえ、と言いました。

 ――人の悪口は言いたくありません。

 ――ただ、辞める時には、ちゃんと挨拶をしたかった。
 ――でも、あの人とはもう言葉を交わしたくもない。

 ――だから、社長に直接お礼を言いに来たのです。

 そう言って、田村は笑顔を見せました。
 ――本当に、今まで有難うございました。

 僕は全く状況の分からないままに、慌てて頷きます。
 そしてどうにか言葉を絞り出す。

 ――これからも、頑張って。
 彼女がこれからどうするのか、僕は全く知らないのですが。

 ――はい、社長こそ、本当に気をつけて頑張ってください。

 そう言い残して、田村は去って行きました。


 僕は、不安になります。
 塾部門の社員が減るのは狙い通りなのですが、日本語部門の社員が減るのは、完全に想定外です。
 僕が塾部門を閉鎖した後も、日本語部門はうまく回ってくれないと困るのです。
 そうならないと、僕が旅を終えた後、帰る場所がない。

 日本語部門の主任である小迫に何とか頑張って貰わねばならないのですが。

 どうしても、彼の悪い話が耳に入って来てしまう。
 田村からのみならず――イーティンからも、再三聞かされる。

 それぞれ話に具体性はないのですが、これだけ悪口を言われるということは、やはり彼には裏の面があって、そこに何かの問題があるのだろうと思えてしまう。

 それが何であるのかは、まるで分かりませんが。

 会社のことを彼に任せて、本当に良いのか?
 そんな不安を、強く覚えてしまうのです。

 それでも。
 僕に何か効果的な手を打てる筈もありません。
 ただ、黙っているしかないのです。


 やがて、日本語講師の欠員は補充出来ました。
 塾部門の方は、講師の欠員補充はしませんが、その代わりに、生徒募集を絞ることで、クラス運営が出来ています。

 日本語部門、塾部門の双方は安定し。
 裏には何があるのか、それとも何もないのか、僕にはさっぱり分かりませんでしたが――表面上は穏やかに、日々は過ぎて行きます。

 そんな、ある日のことです。

 経理のイーティンが、授業終了後に時間を取って欲しい、話がある、と言い出すのです。

 いつも夕方に帰宅する彼女が、そんな時間まで会社に残るということ。
 そして、そう言った時の硬い表情。

 まさか、と僕は思います。
 ――彼女も、退職すると言い出すのでは。

 創設以来の経理担当社員です。
 しかも、唯一の台湾人社員。
 経理システムや法務など、社内で彼女だけが理解していることは数多い。

 イーティンに去られると、かなり面倒なことになる。

 そうならないでくれ――僕は祈るような気持ちで、残りの仕事を終わらせます。

 そして、僕達以外の社員の全員が帰宅するタイミングで、イーティンは社長室にやって来ました。

 僕は緊張しながら、イーティンの言葉を待ちます。

 彼女は、小さな声で言いました。

 ――お金がありません、と。 
 


 その短い言葉が。

 僕を、本物の地獄へ突き落す、嚆矢となるものでした。


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