塾の静かな終わりと、再びの旅立ちを決めるADHD社長 【ADHDは荒野を目指す】
6-31.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。
けれども、ADHDである僕には、会社運営などうまく出来ません。特に人事は壊滅的で、オフィス内にはギスギスした雰囲気が漂い、辞めて行く社員の多い。
その上、台湾人の妻とも関係がうまく行かず、結局離婚。
そんな状況でも、肥大化した会社を支えるために、僕は週休ゼロ日で働き続けなければならず――肉体的にも精神的にも、どんどん疲弊して行きます。
それでも、頼れる旧友・岩城が入社して、リーダーシップを発揮。これで僕も一息をつける――と思っていましたが。
入社僅か三か月、その岩城が、社内のトイレで自殺未遂を起こし、そのまま退職する流れに。
その一連の出来事の中で、僕は自分の未熟さを痛感し、ようやく決意をします。
このままでは駄目だ。
塾を閉鎖し――もう一度旅に出よう、と。
ただ、塾を閉鎖すると言っても、それは簡単なことではありません。
社員も、生徒も、大勢いるのです。
彼らに対する責任がある。
全権を担う僕が、やーめた、と逃げ出すことは出来ない。
僕が一人で作り、自分の名前を冠し、誰よりも多くの授業をこなし、誰よりも多くの事務仕事をこなす、そんな組織なのです。
思い上がりでも何でもなく、僕がいなければ成り立たない場所です。
それでも僕は、その塾を、時間をかけて、静かに終わらせようと決意します。
それは、難しいことではないように思えました。
何せ、外国にある、零細企業なのです。
そこで働いている人の殆どが、『外国に住みたい』『人と違ったことをしたい』といった程度の思いしか持っておらず、僕の塾にはたまたま入社しただけ。
また、台湾基準では高給取りであっても、日本基準ではまだまだ安月給。
『この塾で生活の基盤を築こう』と思う社員だって、いません。
『どうしてもこの塾で仕事をしたい』人など、いる筈もなく。
『この人の元で働きたい』と思わせるようなカリスマなど、僕にある筈もなく。
放っておいても、勤続一、二年で社員は辞めて行くもの。
社員から辞意を伝えられたら、慰留はしない。
そして、新規社員の募集はしない。
そうすれば、社員は自然に減って行きます。
また、生徒も大勢います。
そして、社員と違い、『べいしゃん先生だから入塾した』という生徒が一定数いるのは、確か。
でも、そのほとんどが、駐在員家庭の子供です。
そして駐在員は通常、二、三年で転勤辞令が出ます――勿論生徒達は、それで退塾します。
そうでなくとも、台北日本人学校には中学部までしか存在しないため、生徒の殆どは、中学卒業と共に日本に引っ越してしまう――自然に退塾するのです。
だから、新たに台北に転勤してくる家庭に対し、生徒募集をかけさえしなければ――生徒もみるみる減って行くのは、間違いない。
こうして確実に、二、三年で、塾は緩やかな終わりを迎えることが出来るでしょう。
ただ、終わらせるのは、塾だけのこと。
僕の会社は、塾部門と日本語教室部門の二つで成り立っていました。
その日本語教室部門に関しては、閉鎖はしません。
この部門は、小迫という男性が作り上げたものであり、僕の会社は、彼に教室と事務員を貸し出しているだけ。
僕がいなくなっても、何の問題もありません。
だから。
塾部門を閉鎖しても、会社自体は残し、日本語教室部門の経営は続けておく。
利益はない――むしろ赤字ではありますが。
そうして会社を保っておけば、いつか僕がまた塾を再開させたくなった時、一から登記をしあにでも良い分、かなり楽になります。
また、こうしておけば、唯一の古参社員であるのみならず、難病患者であるためにまともな就職が出来ない、経理のイーティンにも、仕事を残しておくことが出来る。
色んな意味で、これは素晴らしい方法だと思いました。
そして塾を閉鎖すれば、僕はもう一度旅にでようと思います。
若いころ、チベットをヒッチハイクで横断したり、一年かけてアジアアフリカを旅したりしました。
最後は、睡眠薬強盗に全てを持って行かれるという、悲惨な終わり方ではあったものの。
日常に耐えきれない、常に新奇なものを求め続ける、ADHDの僕にとって。
無数の感動や苦しみに満ちたその旅は、本当に素晴らしいものでした。
その時の『思い出貯金』があるからこそ、その後の台北での日々――移住や起業、裁判等、当初は大変な冒険の日々だったにも関わらず、いつしか、ただひたすら働き続けるだけの、無為な日々になってしまったもの――に耐えられた、ともいえる。
そして四十歳になろうとしている今、もうあの頃のような体力はないものの。
お金はあるし、スマートフォンとWi-Fiもある。
肉体的に、それ程厳しい旅をしなくても済むでしょうし。
ADHDとは、成長しない生き物です――つまり、感性は若い頃のまま保たれている。
数年前のヒマラヤトレッキングの時だってそうだったように、様々な感動や苦しみを得られるでしょう。
いや、若いころのような、『お金がない』という不安や、『いい年してまともに仕事をしたこともない』という焦燥感に囚われる心配がない分、より多様な体験が出来て、より多く心を動かすことが出来るだろう。
そして、その内に、その後の――旅を終えた後の、もっとまともな生き方だって、見えて来るかも知れない。
そう思うと、ワクワクして来るのです。
そうして僕は、静かな終わりに向けて動き始めました――いや、動かないようにしました。
案の定、ポツリポツリと講師が退職して行きます。
日本に帰り就職するもの、台湾の日系飲食店の店長になるもの。
そんな彼らを、僕は引き止めたりせず、ただ行くに任せます。
一方で、新規講師の募集はしない。
そうして、塾部門の社員はどんどん減って行きます。
予定通りだ、と僕は安心したのですが。
しかし、予想外のことも起こります。
――日本語教室部門の講師も、徐々に辞めて行くのです。
勿論、日本語講師の方も、塾講師同様、長く続ける仕事ではありません。
いや、塾講師よりも薄給である分、本来、人材の回転はより速いもの。
とはいえ、僕の塾にいた日本語講師は、台湾人の彼氏を持っている若い女性が多く。
彼女たちにとって、合法的に滞在できるビザこそが本当に欲しいもの、給与は二の次、といったケースが多い。
そして僕の会社では、日本語講師としては、かなり良い給与を貰える。
だから、退職者は比較的少なく――彼女達は、それこそ結婚、或いは妊娠でもしない限り、そうそう退職はしなかったのですが。
今まで数年間、何の問題もなく勤務していた二人の女性社員が、結婚する訳でもないのに、そして帰国をする訳でもないのに、立て続けに退職することになってしまったのです。
僕はそれを少し不思議に感じますが。
日本語教室部門に関しては、僕は殆どノータッチ。
主任の小迫と、経理のイーティンから、時折報告を聞くだけです。
詳しい事情は分からないし。
それに、幸いなことに、日本語講師は塾講師よりも見つけやすい。
彼女達の退職日より前に、後任講師も決定し。
その事態を、特に気にもしていなかったのですが。
――ある日。
出社しようと通りを歩いていた僕は、突然背後から、社長、と、日本語で呼び掛けられるのです。
驚いて振り向くと、そこには、その日が勤務最終日である、日本語講師の田村が、真剣な表情をして立っていて。
――社長、お話があります。
――後で、社長室にうかがってもよろしいでしょうか。
そう、鋭い声で言うのです。
僕は、怯えながら頷きます。
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