経理が出来ないADHD社長 【ADHDは荒野を目指す】
5-5.
台湾人女性と結婚し、台北に移住した僕は、そこで日本人子女向け学習塾を設立します。
無事に生徒も集まり、営業許可も獲得。しかしそこで、経理をどうするか、という問題に突き当たります。
そもそも僕は、ADHDです。
細かいことが全く出来ません。
それでも、好きなことであれば頑張れます。
単純な計算などはかなり得意で、そのお陰で算数・数学には強いのですが――お金の勘定は一切出来ません。
算数・数学には、与えられた命題の「正解」を探り当てる、という最終目標があります。
推理小説のようなもの。十分に楽しめます。
けれども、お金の勘定には、そんなものはありません。
「正解」もなく、ただ数字が行き来するだけ。
どれだけ自分が持っているかを、覚えることすら出来ません。
平気で一桁間違えることだってしょっちゅう。
そもそも僕には何故か、「お金を稼ぐのは汚いこと」という思い込みがあります。
だから、お金のことを考えること自体が、余り好きではない。
その上、地道で面倒な作業はもっと嫌いなのです。
こんな人間が、一つの会社の経理など出来る筈がありません。
だから、それを誰かに任せなければならないことは、自覚していました。
妻もそれが分かっていて、台湾人の人脈で候補者を挙げます。
どうやら台湾には、会計士の他に、もっと安価に簡単な業務だけをやってくれる記帳士という存在もおり、僕の会社程度の規模であれば、この記帳士に依頼するだけで十分だと言います。
それも、月僅か三千円程度で。
心は動きますが――でも、駄目だと思いました。
経理は得意ではないが、それが大事であることぐらいは分かっている。
それを、言葉もろくに通じない相手に、安い値段で発注する――リスクが高すぎるように思えます。
もし手抜きをされても、それを発見することすら大変です。
やはり言葉の通じる相手に託したい――それも出来れば日本人で。
そう考えた時に思い出したのが、南野という人物でした。
台北で企業コンサルタントをしている、六十がらみの男性です。
妻の勤める日系大手電機メーカーと契約しているという伝手があったため、塾の開業を検討し始めた時に、彼の元を訪れました。
そこで、塾開業に関して何でも手伝いしてあげよう、という言葉を貰ったのですが――彼に依頼することは一切ありませんでした。
そもそも彼は、台北で普通の会社のスタートアップを手伝ったことは何度もあるようですが、進学塾のそれを手伝ったことは一度もないようで、その立ち上げにある様々な規制について、一切何の知識もなかったのです。
それでいて、高いお金を請求されることになる。
これなら、台湾で実際に何度も塾立ち上げに協力したことがある、台湾人塾コンサルタントに依頼した方がずっといい。
そう判断した結果、僕は南野に再度連絡することはありませんでした。
そうして、台湾人コンサルタントのお陰で無事に塾は出来たのですが、あくまでもそれはハード面だけの話。
経営というソフト面に関しては、台湾人に頼ることは出来ません。何せ日本の進学塾など、彼らには一切分からない世界ですから。
そこで僕は、『会社が立ち上がった後は、経理も見てあげる』という南野の言葉を思い出したのでした。
そうして僕は、南野にメールを送ります。
――お陰様で塾が完成しました、次は経理について依頼を考えているので、お話を聞かせてくれませんか、と。
南野からの返信はすぐに来ました。
――塾設立について、何故弊社に依頼しなかったのか?
それだけの内容です。
彼の怒り――とまでは言いませんが、苛立ちが伝わってきます。
そこに文句を言われる筋合いはありません。
僕はあくまでも相談に行っただけ。
そしてその結果、彼には力が不足していると判断し、依頼しないと決めただけ。
責められる要素はない。
――と、今なら思いますが、当時の僕はそう思いません。
むしろ、折角無料で相談に乗って貰ったのに、依頼しなかったのはまずかったかな、と思ってしまいます。
僕は常識がない大人であり、それを自覚出来ている人間です。
慌てて、丁重に詫びるメールを送り、その上で、経理について話をしたい、と再度書き送ります。
――分かりました。ではそちらに打ち合わせに行きましょう。
許して貰えた、僕はホッとして、打ち合わせの日時を約束しました。
そしてある週末、南野は台湾人女性スタッフを伴ってやって来ました。
僕は妻と共に彼を迎えます。
南野が早速タバコを吸い始める横で、その女性は、経理業務委託の仕事内容を、流暢な日本語で伝えます。
記帳業務、給与計算、決算書作成、確定申告。
全部、僕には絶対に出来ないこと。
これは助かるな――そう思った時に、業務委託の価格表が出てきました。
それを見て、僕は衝撃を受けます。
――全部任せると、月十万円近いお金になるのです。
これは余りに高すぎる。
そう思いますが――金勘定の出来ない僕です。
まあでも、仕方がない支出なのだろうな、と思います。
とにかく右も左も分からない最初は、全部お願いするしかない。
その内に僕も勉強して、一部だけでも自分で出来るようにすればいい――そう思うだけで憂鬱な気持ちになりますが、とにかく自分にそう言い聞かせます。
それに。
かつてこの南野は、僕を、元大統領に紹介してくれると言った。
この十万円には、そういう人脈を持たせてくれる意味があるのかもしれない――いや、そういうことがなければおかしい金額だ。
台湾に移住して二年以上、人脈は愚か、友人の一人すらいない僕は、やはりこれは必要な投資だ、と思います。
やがて説明が終わります。
リーファがニコニコしてお礼を言います。
――じゃあ、ここにサインをお願いします。
女性が業務委託契約書を差し出しながら、言います。
僕はペンに手を伸ばしかけて――そこで思いとどまりました。
契約をしたくなかった訳ではありません。
ただ、ミスばかりの人生を三十年以上送って来た、そして痛い思いを無数にしてきた、ADHDです。
流石に、こういう時には慎重になるようになっていました。
――一度この契約書をじっくり拝見して、その上でサインしたいと思います。
南野があからさまに不快そうな表情をしたため、僕は少し怯みます。
――もう一回ここに来るとなると、また時間もタクシー代もかかるんだけどね。
すみません、と僕は頭を下げます。
そして二人は立ち上がりました。
僕とリーファは、塾の外まで彼らを見送り、笑顔で頭を下げます。
エレベーターが下りて行くのを見て、僕は息を吐きました。
――想像以上に高かったな。
そう妻に話しかけた時――突然、階段を上がって来る足音が聞こえました。
驚いてそちらを眺めると、南野が駆け上がって来る所でした。
踊り場で足を止めた彼は、僕とリーファの方を見上げて言いました。
――言い忘れていたけど、毎月僕の社員が領収書を取りに来る時の往復のタクシー代、一万円も支払ってもらうからね。
分かりました、勿論です、と僕は急いで頷きました。
南野は頷き、階段を下りて行きます。
僕とリーファは、塾内に戻りました。
背後の扉を閉めた途端――リーファは言いました。
――絶対に契約したら駄目ですよ。
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