見出し画像

かつての級友に連絡するのに、勇気が必要だった理由 【ADHDは荒野を目指す】

 5-8.

 台湾人女性と結婚した僕は、移住先の台北にて、日本人子女向け進学塾・H舎から独立、同様の塾を立ち上げます。
 しかしそこに、H舎から、三千万円の賠償金と営業停止を求める訴状が届きます。

 台湾人弁護士に相談に行くも、賠償金の減額はあり得るが、敗訴は間違いないと言われてしまう。

 絶望に囚われた僕ですが、そこに裁判所からのまさかの報せ。
 ――裁判が打ち切りになった、というのです。


 訳が分かりませんでした。
 裁判が打ち切られたということは、被告である僕が実質勝訴した、ということ。

 歓喜の念が湧いてきますが――しかし同時に、困惑の念も強い。
 どういうこと? まだ何もしていないのに、どうして打ち切りになった?

 とにかく、届いた書状に僕は目を通します。

 法律用語の混ざった中国語、勿論中々意味が取れません。
 それでも何度も何度も読み返す内に――ようやく、意外な事実を理解しました。

 ――管轄違い、です。

 H舎と僕が交わした労働契約書には、『契約に関する訴訟がある場合は、士林地方裁判所にて行う』とはっきり明記されています。

 ところが、僕に届いた訴状は――『台北地方裁判所』からのもの。


 そう。
 H舎は、訴訟を行う裁判所を間違えたのです。

 契約書通り、『士林地方裁判所』でやらなければならなかったものを、『台北地方裁判所』で訴訟してしまった。

 その結果、裁判はあっという間に打ち切りになった。


 歓喜の念は、消えて行きます。

 ただのミスです。
 間違いなくH舎は、士林地方裁判所で訴訟をし直すでしょう。

 ――それでも。
 僕の心は、少し明るくなりました。

 これは完全な、イージーミスです。

 三千万もの大金がかかった訴訟――その裁判費用も、それなりに大きな物になるでしょう。
 それなのに、H舎はこんな簡単なミスをする。

 どうやら相手の弁護士は、有能ではない。
 いや、有能ではあるかも知れないが、少なくとも、この訴訟に対して真剣ではない。

 これなら――もしかすれば、何とかなる可能性があるのではないか?

 そう思った僕は、俄然やる気を出し――そして、案の定『士林地方裁判所』からまた内容の同じ訴状を受け取ったところで、一世一代の勇気を振り絞った行動に出ます。

 それは、中学・高校時代の友人にメールをすること。


 普通の人であればなんてことはない行為でしょうが、僕にとって絶対にそうではない。

 何せ僕は、灘中・灘校に通っていたのです。

 大人になって以来、時間が経てば経つほど、彼我の『社会的地位』というものも隔絶されて行きます。

 どんどん偉くなって、収入もぐんぐん増えて行く彼ら。
 それに対して、アフリカで強盗に遭って親に送金を頼んだり、三十前までフリーターをしていたり――底辺のままの僕。

 幸い、僕は『社会的地位』にはさして関心はないお陰で、嫉妬のような感情――ルサンチマンなどはありませんでしたが、ただ、彼らと共通の話題がない。
 一流の医者だったり、研究者だったり、官僚だったり、銀行員だったり、証券マンだったり商社マンだったりする彼らの日常と、目の前のことに必死である僕の日常は、余りに違いすぎる。

 自然、距離が離れて行きます。

 しかも。
 三十を過ぎるような頃合いになって、ようやく僕も――人の半分のペースでしか精神的成長が出来ない僕でも、実質十五歳ともなれば――自分の過去を、多少は恥じることが出来るようになります。

 中高時代の僕は人よりずっと幼いADHDだったのに、周囲の連中は老成したスーパーエリートばかり。

 人間の中に猿が放り込まれたようなもの。

 そこでは、僕は珍獣でしかありませんでした。
 しかも、そんな自分に耐えられず、何とか自己を顕示しようとし、しかし全ての能力において不足していたが為に、僕はただただ奇矯な振る舞いを繰り返していたのです。
 いわゆる中二病のまま、中高六年間を過ごしたのです。

 思い返せば、恥ずかしくてならない。

 多少は仲良くしてくれた心の広い友人もいましたが、彼らのことを思い出そうとすると、自然に、当時の自分のみっともなさも思い出される。

 恐らく彼らは、僕の奇矯な振る舞いなどまるで覚えてもいないでしょうが――それでも、僕の自意識は、そこにとんでもない羞恥心を感じさせてしまう。

 嫌なことからは目を背けることしか出来ない僕は、そして中高時代の友人達とは連絡を絶つことで、その時代のことを一切思い出さないことにしていたのでした。


 けれども。
 ささやかとはいえ、一国一城の主となりながらも、それを奪われるかも知れない事態となると――もう、恥じている場合ではありませんでした。

 そして僕は、かつての級友の一人に、メールを送ります。
 現状を事細かく記し、よければ誰か台湾の弁護士を紹介してくれないか、とお願いします。

 彼は、日本の大手弁護士事務所で、国際弁護士をしている元同級生です。
 途轍もない能力があるのに、非常に優しい人柄で、中高時代もずっと僕と仲良くしてくれた人物です。

 有難いことに――彼からすぐに返事が来ました。

 かつてアメリカ留学時代に友人だった、台湾大学出身の陳弁護士が、今台北に戻って事務所を開いている。非常に優秀な人物だ。
 彼に依頼をするなら、話を通しておく、と。


 有難い。
 実力もない癖に、兄の威光のお陰で灘校に入ることが出来てしまったが故に、ひどく落ちこぼれ、何事にも自信が持てない人間になってしまった。
 普段はそんな風にばかり考えてしまうのですが、やはり一方で、灘校に通っていたことは、色々な意味で武器になることを実感します。

 僕にその学歴があるからこそ、塾を開けば生徒は集まる。
 そして同級生が優秀だからこそ、窮地でもある程度は助けて貰える。

 おこぼれを貰って、何とか生きているのです。


 僕は、即座に陳弁護士に連絡を入れました。
 友人の紹介なので、最初は無料で相談に乗る、と言ってくれます。

 約束の期日に、妻と共にその事務所を訪れました。

 台北中心部、外観は汚くはあるものの、内装は非常に綺麗な商業ビルの一角にその事務所はありました。

 扉を開けると、綺麗な女性が立ち上がり出迎えてくれます。

 僕達二人は応接間に通され、陳弁護士と向かい合いました。

 まだ三十代、眼鏡で小柄――少しひ弱そうなイメージを与える男性でしたが、その口から出る言葉は明快でした。

 僕と妻が、訴状を見せ、契約書を見せ、状況を伝えると――陳弁護士は、すぐに断言口調で言ったのです。

 ――これなら勝てます、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?