三千万円を諦めることにしたADHD元社長 【ADHDは荒野を目指す】
6-38.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。
けれども、創業より九年後、経理の台湾人女性・イーティンが、会社の資金・三千万円を横領していたことが発覚。
これに怒りを覚えながらも、どうにかそのお金を取り返そうとしますが。
突然、僕の会社から、会社の閉鎖と、僕の解雇を伝えるメールが送られて来たのです。
僕は呆然としながらも――懸命に考えます。
何故こんなことになったのか、を。
こんなメールを送ったのは、間違いなく、イーティンです。
義母は日本語が話せないし、そもそも全て娘のいいなりの人物です。
全部、イーティンの仕業でしょう。
そして、恐らく。
昨夜僕に責められたイーティンは、そこで初めて、自分の行為が犯罪であることをはっきり認識したのでしょう。
そして怯えた――三千万円を取り返されることと、警察に告発されることを。
そんな事態を防ぐにはどうすればいいか――必死に考えた彼女は、名義上のオーナーである母親の名を使って、僕を解雇すれば良い、と気付いた。
外国人の就労ビザは、会社経由でしか発行されません。
つまり、会社の社員でなくなれば、ビザも失効する。
解雇された僕は、台湾から退出しなければならないのです。
かくして、僕を台湾から追い出す方法を彼女は見つけ出した。
でも。
これだけでは、いつ僕が台湾に戻って来るか分からない。
日本人は、九十日間であれば、自由に台湾に滞在できます。
勿論その間に、警察や裁判所に訴えを起こすことは可能です。
僕がそれをする可能性は非常に高い。
そこで彼女は、もう一歩踏み込んだ決意をした。
どうせなら、僕を解雇するだけでなく、会社ごと潰してしまおう、と。
そうなれば、横領という事実を掘り返すことは、非常に困難になるでしょう。
そもそも、僕がいなくなれば、会社は利益を生まないのです。
世間知らずのイーティンやその母に、僕のいない会社を経営出来る筈もありませんし。
会社を潰さない理由は、一切存在しない。
――かくして。
彼女は、会社の閉鎖を決めた、ということでしょう。
こうして考えみれば、会社の閉鎖というのは、イーティンにとって、当然の選択でした。
それによって、三千万円もの大金と、自分の安全を守ることが出来るのですから。
それに比べると――昨夜ただ落ち込んで寝転んでいただけの僕は、なんと愚かで、迂闊だったろう。
急いで色々考えて、急いで動くべきだった。
僕は、強いショックを受けつつ、激しく後悔をします。
それでも。
――まだ、大丈夫だ。
僕はそう思うのです。
まだ、全てを取り戻すチャンスはある、と。
各家庭にメールを送るのは、塾のパソコンを使わねばなりません。
ということは、メールが送られた直後の今、イーティンはまだ塾にいるか可能性が高い。
だから、今から塾に行き、彼女に会い、直接説得をすれば、耳を貸してくれるのではないか――そう思ったのです。
やはり。
彼女はずっと、僕の唯一の味方だったのです。
勿論信頼し合っていた訳ではありません。
ただでさえADHDであり、日本人同士ですら分かり合える相手を殆ど持てない僕です。
外国人であり、若い女性であり、難病患者であり、しかも元妻の妹という立場の彼女です。
どうしても、ある程度の距離を取って接さざるを得ない関係でした。
それでも、イーティンは。
何も持たずに台北に降り立った僕が、妻に捨てられながらも、懸命に働き、小なりといえども社長と呼ばれるようになるまでの姿を知る、唯一の存在なのです。
仕事ばかりしていて友人の一人を作ろうともせず、社員とも一切プライベートで関わろうとしなかった僕の私生活を、ある程度知り、ある程度配慮をしてくれていた、唯一の存在なのです。
それに。
僕は、難病患者である彼女に、出来るだけ優しくしてきたのです。仕事を与え、脱税などの行為に文句も言わず、お世辞を言い、バッグを買い与え、海外旅行をプレゼントしさえしたのです。
勿論、他人と感性が異なるせいで、僕の行為は誤解されることが多い。
よかれと思ってしたことで、恨まれてしまうという経験は無数にある。
でも、今まで僕がイーティンに対してしてきたことは、もしかしたらただ独りよがりの、独善的な物だったかも知れませんが――それでも、悪意だと誤解される余地の一切ない、そんな物であるのは確かです。
イーティンとは、そんな相手なのです。
だから、どうしても――まだ、何とかなるのではないかと思ってしまう。
話し合えば、分かってくれるのではないかと思えてくる。
そんな、甘い希望に縋ってしまうのです。
そして、僕は家を飛び出し、塾に向かって急ぎました。
道中、懸命に考えます。
説得も、脅迫もしない――懐柔しよう。
絶対に警察や裁判所には訴えないと約束しよう。
返金も猶予してあげていい――最悪、返金しなくてもいいと言ってあげよう。
そう、お金も会社も奪われるよりは、片方だけで済ます方が、ずっと良いに決まっているのだから。
三千万円ものお金を放棄する。
それほどの突き抜けた優しさを見せれば――彼女もきっと心を動かしてくれるだろう。
そうに違いない。
祈るような気持ちで、僕は自分にそう言い聞かせつつ、塾へと急ぎました。
そして、僕は塾の入り口に立ちます。
ところがその途端――恐らくその事態を予測して待ち構えていただろうイーティンが、僕の目の前に立ちはだかります。
頬を紅潮させながら――僕を睨みつける。
それだけでない。
彼女の背後には、台湾人男性二人が立っているのです。
一人は、社内のシステム系の仕事を頻繁にお願いする、顔見知りのエンジニア。
もう一人は見覚えのない、大柄な男です。
その状況に、僕は少し怯みますが。
――話をしよう。
僕は努めて冷静に言います。
――中で、ゆっくり話をしよう。
二人の男性を背後に従えたイーティンは、僕に向かって、はっきり言いました。
――あなたはもうここの社員ではありません。
――だから、話すことはありません。
そこには、むき出しの敵意しかありません。
僕はさらに怯みます。
懐柔しようという思いなど、一瞬で吹き飛びます。
無理だ、と思います。
彼女と語り合うのは無理だ。
――彼女は、完全な敵なのだ、と。
僕は絶望を覚えます。
でも。
このまま帰ることは出来ない。
このままでは、僕は確実に破滅なのです。
何かをしなければ。
何とか、イーティンと戦う手段を見つけなければ。
でも、もう言葉でどうにかなる段階ではない。
勿論暴力だって意味がない――二人の男性に勝てる筈もない。
どうしよう? どうすればいい?
必死に考えて、ようやく一つの答えが浮かびます。
――パソコンを回収しよう、と。
そう。
僕の会社に関する多くのデータが、社長室にある僕のノートパソコンの中に保存されているのです。
それは、色んな意味で役に立つのではないか――今後警察や裁判沙汰になった時に、それがあるとないとでは、状況が大きく違うのではないか。
そう思った僕は、出来るだけゆっくり言います。
――ちょっと、社長室に入りたい。
――駄目です。
即座にイーティンが答えます。
僕は懸命に言います。
――私物を回収するだけだから。
――退職した社員だって、それぐらいは許されるだろう。
けれども、イーティンはそこを動かない。
――駄目です。
――入れろ、って。
思わず厳しめの口調で言うと。
イーティンは、さらに激しく僕を睨みつけて言いました。
――警察を呼びますよ。
僕はまたまた怯みますが。
でも、それもありかも知れない、と思います。
僕が元社員であることはイーティンだって認めている。
そして元社員が私物を回収に来るのは、警察だって止めないだろう。
イーティンがスマートフォンを耳に当てます。
僕は少し迷いはしましたが――それでも、意を決して、それを止めずに見守ります。
やがて、一人の男性警察官が現れました。
彼の登場に気付いた僕は、急いで話しかけようとします。
――ですが、その瞬間。
突然、異様な声が聞こえてきて、僕は驚きながら振り返ります。
そこでは。
先ほどまで、激しく僕を睨みつけていた、イーティンが。
激しく嗚咽していたのです。
――大粒の涙を、ポロポロとこぼしながら。
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