横領犯の説得を試みるADHD社長 【ADHDは荒野を目指す】
6-35.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。
けれども、ADHDである僕には、会社運営などうまく出来ません。特に人事は壊滅的で、オフィス内にはギスギスした雰囲気が漂い、辞めて行く社員の多い。
その上、台湾人の妻とも関係がうまく行かず、結局離婚。
そんな状況でも、肥大化した会社を支えるために、僕は週休ゼロ日で働き続けなければならず――肉体的にも精神的にも、どんどん疲弊して行きます。
さらに、旧友であった社員の自殺未遂などもあり、ついに僕は、人生のやり直しを決意。
塾の閉鎖に向けて、ゆっくりと準備を始めたのですが。
そんなある日、三千万円以上あると思っていた会社の口座に、殆どお金が残っていなかったことが判明。
経理の台湾人女性・イーティンが、五年ほどの期間に渡って、自分の給料として、毎月百万円ほどのお金を持って行っていたのです。
本来の月給は、十五万円なのに。
余りのショックに、言葉が出て来ません。
それでも。
流石の僕でも、この事態においては、黙ってはいられない。
ただ、会社のお金がなくなった、というだけではない。
それがとんでもない大金だった、というだけではない。
会社のお金がない、ということは、すなわち、僕自身のお金がない、ということなのです。
実は。
僕は、自分の貯金を持っていないのです。
九年間も社長をして、七年間も黒字を上げ続けていたのに。
――と、いうのも。
僕はそもそも、給与というものを一銭も貰っていませんでした。
とはいえ勿論、ボランティアをしていた訳ではありません。
住居は会社名義で借りており、家賃や光熱費、電話代等は会社の経費として支払われる。
食事はほぼ全て、イーティンが会社のお金で買って来る弁当。
イーティンのいない日の食事や、個人的な買い物の際は、会社名義のクレジットカードを使う。
その代金は、イーティンが会社のお金から支払ってくれるのです。
勿論現金でしか支払えないものを買うことはあるため、時折、イーティンから現金を受け取っていましたが、それとて、せいぜい月数千円程度のもの。
つまり、給与ゼロ、支給されるのはほぼ現物のみ、という生活を送っていたのです。
こんな生活をしていたのは――税金対策です。
台湾は、外国人の所得税が高い一方で、法人税が低い。
だから、会社の得た利益は、僕の給与にするよりも、会社の口座にとどめておいた方が、課される税金が少ない。
つまり、節税になる。
だから、こういうシステムにしていました。
――ただし、勿論。
それは、合理的に考えて採用したシステムではありません。
七年前、会社の社員が僕一人ではなくなった時点で、会社のお金と自分のお金を分けよう、と思いはしたのですが。
その時、僕は銀行口座を持っていませんでした。
いや、正確に言えば、持っていたのですが。
当時僕は、ライバルのH舎から民事訴訟を起こされており、その中で、口座を凍結されていたのです。
勿論、別の銀行に口座を開くことは可能だったのですが、折しも、部下を雇い、塾を拡大したことで、慣れない仕事が一気に増えたばかりの時期。
短い休み時間で、銀行まで行き、不十分な中国語を駆使して口座開設の申し込みをする――その手間が面倒でならず。
どうせ会社の金は僕の金なんだから、その口座の名義が会社であっても僕であっても違いはない。
僕は、自分のお金を一切持たず、全ての収益を、会社の口座にとどめておいたのです。
たまたま、それは節税になると聞かされたため、余計に、自分の口座を持とうと思えなかった。
それだけの話なのです。
そうして、口座を持たないまま暮らしてきた僕にとって。
会社のお金がない、ということは。
すなわち、僕のお金もない、ということ。
明日からの生活すら、怪しくなったということ。
とんでもない状況です。
僕はパニックに陥りますが。
でも。
僕は自分に言い聞かせます。
――最悪の状況ではない、と。
その三千万円を持っていた犯人は、すぐ目の前におり。
しかもその当人は、どうやら、自分が悪いことをしたとは、思っていない。
恐らく、彼女は僕の会社以外で働いたことがない上に。
その僕の会社にしても、同僚はすべて日本人、しかもADHDで世間知らずの社長を上に抱く、奇妙な場所。
まともな常識が育っていないだけ。
だから、三千万円の行方についてもベラベラ喋ったし、その後、僕を非難するような言動すら出来る。
つまり、彼女は自分が正しいことをしたと思っている。
そして。
イーティンは、元義妹であり。
難病患者であり。
妻と離婚した後も、一貫して優しくしてあげていた――社員として優遇していただけでなく、何回もバッグを買ってあげたり、日本旅行をプレゼントしてあげたりした――相手です。
それだけ親しんだ相手なのです。
だから。
今から彼女を説得すれば、耳を傾けてもらえるだろうし。
自分が間違っていると、分からせることが出来るのではないか。
そうすれば、その三千万円を取り返すことが出来るのではないか。
そういう思いが浮かんできます。
――というよりも、その可能性に縋る以外は、ないのですが。
僕は、説得を試みることにします。
感情的にならないよう、感情的にさせないよう、出来る限り、落ち着いた口調で。
――それはおかしいよね?
――僕が使っているのは、マンションの家賃とか、食費とかぐらい。
――せいぜい、月二十万円ぐらい。
――いや、多分十五万円ぐらいだよ。
――週休ゼロ日で、毎日長時間働いて。
――しかも、自分一人で作った会社で。
――唯一の管理職として。
――全責任を背負って、何年間も働いてきて。
喋っている内に、流石に感情が揺れ動いてくる。
自然に語調が厳しくなって行きます。
――その僕が、月二十万円程度で。
――それに対して、君は。
――必ず週三日は会社を休むし。
――出社時間も、僕より遅いし。
――夕方前には帰宅するし。
――出社しても、株価のチャートを見たり、友達とチャットしたりしているばかりで。
――真面目に働いている、他の社員の文句を言うばかりで。
――その社員達だって、週休二日で毎日八時間働いて、それでも月二十万円ぐらい。
――それなのに、遊んでばかりの君が、月百万って。
――絶対におかしいだろう!
低く、鋭い声で言います。
そして、しまった、と思います。
やってしまった。
説得なんかじゃない、叱咤をしてしまった。
そして、案の定――イーティンは、頬をさらに紅潮させながら、より鋭く睨みつけてきます。
僕は思わず目を逸らしそうになりますが――いや、今は逃げていい時ではない、と。何とか自分を励まし、彼女を睨み返します。
それでも、努めて冷静な口調で、言います。
――会社のお金を、勝手に経理が持って行く。
――こういうのは、横領と言うんだよ。
――これは、立派な犯罪行為なんだよ。
――警察に逮捕されることなんだよ。
僕の言葉に、イーティンの表情がより険しくなったように感じます。
僕は慌てて、さらに語調を緩めます。
――でもね。
――すぐに返金するなら、許すから。
――警察にも届けないし。
――いや、すぐじゃなくてもいい。
――毎月十万円ずつとかでも、いいから。
それに、と僕は言います。
――ちゃんと返済してくれるなら、これからも、ここで仕事をしてもいいから。
――真面目に働けば、給料だって、少し増やすかもしれないし。
――だから、お金を返して欲しい。
――その方が、君にとっても、いいことばかりだよ。
途中危なかったけど、うまく話せた、と僕は思います。
ちゃんと文句も言えたし、優しさも見せられた。
何より、お金を返せば、結果的に得をすることを伝えられた。
いい話が出来た。
これなら、説得できたかも。
僕がそう思っていると、イーティンがゆっくり口を開きました。
――私は、遊んでばかりではありません。
え?
僕は思わぬ答えに戸惑います。
――私は、とても努力をしています。
――私は、すごく頑張っています。
そして、と彼女は言います。
――私は、それだけ貰っても良い人間です。
僕は唖然とします。
それでも、急いで言葉を続ける。
――いや、だから、それは、おかしい……
イーティンが突然動きました。
僕は咄嗟に言葉を飲み込み、身構えますが。
インチーはそのまま、黙って社長室から出て行き。
続けて、彼女が会社を出て行く音がしました。
僕は大きく息を吐きます。
人の心が分からない僕に。
家族の心も、同級生の心も、まるで理解出来なかった僕に。
外国人の、しかも若い女性の心など、分かる筈もなかった。
説得なんて、出来る筈もなかったのです。
僕は頭を抱えます。
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