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ギルギットの紙包み その② 【旅のこぼれ話】

 1990年代に初めてインドに行った際、僕が最も驚いたのは。

 とにかく、大麻が氾濫していること。

 そこいらで大麻入りジュースを平気で売っているのです。
 街中はおろか、警察署の正面でも。

 勿論、僕は怯えました。
 日本でも、「悪い遊び」など一切したことのない人間です。
 大麻など見たこともないし、身近でそれをしている人を聞いたこともない。
 そんな存在でしたから。
 インドにおいても、僕はとにかくそれに触れないようにし続けました。
 同部屋の旅行者がそれを吸い始めたら、煙さえ吸い込まないよう、急いで部屋を出て行くようにしていましたし。
 そういう人とは、出来るだけ距離を取るようにしていました。

 それでも。
 旅に出ている時間が長くなり。
 インドのみならず、色んな国で、そして色んな人々の間で、大麻というのはかなり一般的な存在であることを知ることとなり。
 かつ、そもそも合法である国や地域もあることを知ると。

 やがて、その存在への恐怖心は小さくなりました。
 すぐ隣で吸われていても気にならなくなりましたし、大麻大好きな旅行者と非常に親しくなったりもしました。

 ただ、自分で吸おうとはしませんでした。

 一度二度、それが合法である場所で吸ってみたことはありますが。
 特に気持ちよくなることはなく。
 むしろ、多少気持ち悪くなってしまいます。

 恐らくは。
 僕は、常にぼんやりしているせいで、無数の失敗をしてきたADHDであり続けたために。
 かつ、厳しい家庭で育った為に、家族の間でも殆どくつろぐことの出来ない子供時代を過ごして来た結果。

 大人になった頃には、かなり警戒心が強い人間になってしまっており。
 どんな場合でも、自分の精神が弛緩するのを受け入れられない。

 アルコールを飲んだ時も、同様なのですが。
 大麻成分もまた、心が受け入れようとしない為、体もまたその効用を受け入れてくれないのでしょう。

 だから。
 それが合法である国であっても、吸引することで何か事故を起こしてしまうかもしれないというリスクがある以上、手を出すべきものではない、ということははっきり分かっており。

 ましてや、それが非合法となっている――つまり、余りにリスクが莫大な、日本を始めとした場所では。
 絶対に近寄るべきものではないと判断するぐらいの賢明さは、持っていました。


 僕にとって、大麻とは、そのような縁遠い存在だったのに。


 パキスタンのギルギットで、パトカーに拾われた時の僕のポケットの中には、それが存在する可能性があるのです。

 いや、ほぼ間違いなく、それがあるのです。 
 紙包みの中に。


 と、言うのも。
 ギルギットの前に滞在していた街を離れる際。
 仲の良くなっていた日本人旅行者の一人が、大麻を吸いながら。

 ――これ、ギルギットでは本当に役に立つから。

 ――ギルギットは、本当に何もない、本当に退屈な場所だから。


 笑顔で小さな紙包みを渡して来たのです。

 出発のゴタゴタで、何気なくそれを受け取っていた僕は。

 移動中、ふとその存在を思い出します。


 彼は、相当な大麻好きで。
 常にそれを吸っていましたし。
 そもそもその為に旅に出たような人物。

 その彼が渡したもの。

 パキスタンの片田舎。
 インターネットもテレビもない、電気すらしょっちゅう停まるような場所。
 イスラム圏であるためにアルコールすら手に入らないような場所。
 娯楽なんて、殆ど存在しないような場所。
 そんな場所で、役に立つもの。

 ――大麻樹脂しか、考えられない。

 いらんものを渡しやがって、と。
 そして、ギルギットに着いたら捨ててしまおう、と。

 そう思いはしましたが。

 忘れっぽいのがADHDです。
 ギルギッドに到着した興奮のまま、存在を忘れていたのです。



 それを僕は、拾ってもらったパトカーの中で、思い出したのです。

 ――しまった。

 一気に汗が吹き出します。

 パキスタンでのそれは、勿論違法です。
 摘発されれば、逮捕される可能性がある。

 ふと、以前であった旅行者の話を思い出す。

 彼は、インドのある街で摘発され。
 警察に連れて行かれ、裁判にかけられた、と言いました。

 幸い、執行猶予にはなりましたが。
 裁判終結までの数か月、その街から出ることすら許されなかったのです。

 もし、そんな事態になれば。
 いや、もっと悪い話だっていくらでも転がっている。

 空港にて、誰かの手で荷物に麻薬を入れられたせいで、麻薬所持者として逮捕され、何年も刑務所に入っている欧米人の話だとか。
 宿にやってきた警察が、持ってきた麻薬をこっそり旅行者のバッグに押し込み、それを自分で見つけ出して、逮捕されたくなければ賄賂を払えと旅行者に要求した話だとか。

 そもそも大麻を吸わない僕なのに。 
 もしそんな目に遇ったとしたら。

 不運なんて言葉で片付けられない。


 まずい。

 僕は震え始めます。

 助手席の警察官が話しかけて来ます。

 ――どこに行きたいんだ?

 分からない、と僕は答えます。

 ――分からない?

 警察官が首を傾げます。ああ、僕は慌てて言います。

 ――えっと、安くていい宿があったら教えて欲しい。

 運転席の警官と助手席の警官が何かを話し合う。

 ――**という宿でいいか?

 勿論、と僕は必死に頷きます。

 パトカーは暗い道を走って行きます。
 僕は背中を丸め、懸命に考えます。

 ――もし、身体検査とかされそうになったら。
 ――荷物を捨てて逃げ出すべきだろうか?
 ――いや、何も分からないこんな場所で逃げても、いずれ捕まるだけ。それだけ罪が重くなるだけだ。

 ――いっそのこと、今窓から投げ捨てようか。
 ――いや、気づかれたら終わりだ。


 ――そうなったら、英語が分からないふりでもして誤魔化そうか?
 ――いや、でももう会話をしてしまったし、それは通用しないだろう。
 ――やはり、それはただ貰ったものだと正直に告げるべきだろうか?
 ――でも、そんな話、信じてもらえるだろうか? そもそも聞いてもらえるだろうか


 心臓が、早鐘を撞くように大きな音で鳴ります。

 助手席の警察官が振り返ります。


 ――日本人か?
 ――ビジネスか? 旅行か?
 ――ギルギッドには何日ぐらい滞在する予定だ?
 ――パキスタンにはどれぐらい滞在している?
 ――パキスタンはどうだ?

 ――日本は大好きな国だ。
 ――日本は良い車を作り、パキスタンは良い人を作る。
 ――ヒロシマ、ナガサキのことを知っている。
 ――君もアメリカは嫌いだよね?

 そんな。
 パキスタンではしょっちゅう投げかけられる言葉を、パトカーの中の警察官は僕にぶつけてきます。

 僕は懸命に返します。
 怪しまれないよう、盛り上がりもしないよう、出来るだけ短く、出来るだけ曖昧な言葉を。


 そして、この状況を恨みます。

 ――どうしてこんなことになったんだ。
 ――道に迷わなければ良かった。
 ――ワゴンバスを降りたところで、人に道を聞けばよかった。
 ――せめてもうちょっと早く引き返していれば良かった。
 ――そもそも地図でも準備しておけば良かった。

 そんなどうしようもない繰り言を、頭の中で繰り返しつつ。
 僕は懸命に目立たぬように時間を過ごします。


 ――そして。
 パトカーが停まりました。

 助手席の警察官が、僕を振り向き、言います。

 ――降りろ。

 僕は急いで扉を開け、車外に転がるように飛び出します。
 警察官が近づき、僕の肩に手を置きました。

 ――ここが、**だ。

 宿の名前です。

 ああ、僕は慌てて礼を言うと、宿の中に飛び込みました。
 背後から、パトカーの動き出す音が聞こえてきました。


 ――助かった。 

 僕は大きく息を吐きました。

 そして、宿の受付で手続きをすませ。

 自分の部屋に入った僕は、急いで、ポケットから紙包みを取り出します。


 ――こんなもの、急いで捨ててしまおう。

 そう思いながら、何気なくその紙包みを開いた僕は。

 そこにあったものを見て、愕然とするのです。


 そこには、大麻樹脂など入っておらず。

 ただ、紙の上に、文字とイラストが記されているだけ。


 そこにな。
 安い宿、美味しい食堂、ラッシー屋、駐車場、チケット売り場等々、旅行者にとって非常に重要な場所の位置を詳細に記した、丁寧な地図が。

 退屈な街・ギルギットにおいて、間違いなく、非常に役に立つようなものが。

 そこには、記されていたのでした。

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