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ルンビニの悪霊 その① 【旅のこぼれ話】

 1.

 今から、三十年ほど前、長い旅をしている時の話です。


 ネパールのルンビニという村に、僕はいました。

 そこは、インドとの国境近くにあるごく小さな村でした。

 その村のすぐ近くには、一つの著名な観光資源がありました。

 それは、二千数百年前、かのお釈迦様が誕生した場所。
 仏教における、四大聖地の一つであり。

 広大な聖地公園の中に、二千年以上の歴史を持つ寺院や、お釈迦様が産湯を使ったと言われる池など、幾つもの名所がありました。

 ところが、残念ながら、貧乏国家ネパールの、しかも僻地。

 僕が訪れた当時はまだ、観光客を呼び込むための投資などは、殆ど行われておらず。

 その村に行くのも、バスやピックアップトラックを乗り継がねばならず。

 聖地公園を除くと、村の周囲には森林と田園風景が広がるだけ。

 村の中には、ホテルやレストランはおろか、雑貨屋すらない。

 街灯すらなく。

 日が落ちると外は真っ暗、通りを歩く人もいない。

 僕が泊まった宿も、二階建ての小さな建物で、他に客の一人もいない。

 インターネットはおろか、テレビすらない。

 食事は宿の家族と一緒に取るしかない。
 けれども、宿の人達は英語を解せず、ろくに会話も出来ない。

 そんな、何もない場所でした。


 ただでさえ退屈が苦手なADHDの僕は、その村に着いてすぐ、苦痛を感じ始めました。

 一応は、お釈迦様の生まれた聖地を詣で、幾つかの名所を見たものの。

 熱心な仏教徒でもない僕は、勿論、特別な感慨を浮かべることもない。


 ――この村は、もういいや。

 そう思ったのです。


 けれども。
 それから何日間も、僕はその村に滞在を続けました。

 そこに、深い理由があった訳ではありません。

 ただ、出て行くことさえも面倒くさいから。

 毎日午前と午後にあるというピックアップトラック、しかしそれは、正確に何時に来るかが決まっている訳ではなく、何時間も道端で待ち続けなければならないのです。

 しかも。
 それに乗り込んだところで、悪路に耐えてようやく辿り着ける場所は、ルンビニより多少大きな街でしかない。

 多分、それ程楽しい場所ではない。

 そんな移動をする為だけに、砂だらけの道端で、何時間も待ち続ける気分にもなれず。

 僕は、その村に居続けたのでした。


 情けないことでした。

 かつてチベットをヒッチハイク旅した時は。
 乗せてくれる車が通りがかるまで、それこそ、何時間でも何日間でも平気で待っていられたのに。

 極寒の荒野で。


 でも多分、チベットの僕が、それに耐えられたのは。
 「ラサに辿り着く」という、はっきりした目標があったから。

 ほんの二千キロ程度の道のり。
 平均時速十キロでも、十日もかからず辿り着ける場所。

 明確にイメージできるゴールの時を思って、目の前の退屈に耐えられたのです。


 一方で、ルンビニに居る時の僕にあったのは。
 「南アフリカの喜望峰」という、遥か彼方の目標だけ。

 そこに到着するまでの、必要な移動距離や時間や予算、何一つ、まるで見当がつかない。
 そんな世界だから、辿り着いた時に僕が覚えるであろう感慨が、想像すら出来ない。

 余りに遠い、その目標の為に。
 目先にある僅かな我慢にすら、乗り気になれず。


 何だかんだ、全てが安価で。
 何だかんだ、宿の食事はおいしくて。
 何だかんだ、穏やかな田園風景が心地よくて。

 ひどく退屈なこと以外には、深いなことの少ないその村で。

 僕はただ、無為な安逸をむさぼっていたのでした。



 そんな、ある夜のことです。

 僕はいつものように、食事を終え、シャワーを浴び、宿のテラスで何時間もぼんやり過ごした後。

 九時半頃に部屋に戻って、眠りに就くことにしました。


 僕が泊まっていたのは、「ドミトリー」と呼ばれる、相部屋形式の部屋で。
 十畳ほどの室内に、ベッド三つが並んで置かれているだけ。
 クローゼットも何もないの、殺風景な部屋です。

 三人部屋ですが、勿論利用者は僕一人です。

 眠るための準備を整えると。

 入り口横にあるスイッチをひねり、電気を消します。

 部屋は真っ暗になります。
 小さな窓の向こうから、月の明かりが僅かに漏れて来るだけ。
 その微かな明かりを頼りに、手探りで、一番奥の自分のベッドへとたどり着き。
 すぐに横になりました。


 いつもの通り、物音など殆どしません。
 時折、鳥の鳴き声らしきものが響いてくるだけ。

 その、暗闇と静寂の中、僕はすぐに眠りに落ちました。


 ――それから、どれほど経ったのでしょうか。

 不意に僕は、目を覚ましました。

 耳に響いてくる音。

 ――ドンッ。

 え?

 すぐに意識が明瞭になります。

 ――ドンッ。

 繰り返される、大きな音。

 何? 何これ?
 僕は驚き、音のした方に目をやります。

 けれども、真っ暗闇。

 何も見えません。

 ――ドンッ。

 ようやく、僕は理解します。
 扉が叩かれているのです。


 そうか、と僕の頭はさらに働く。

 そこはドミトリーであるとはいえ、客は僕一人。
 他人に配慮する必要はありません。

 だから、眠る前に、その扉の内鍵をかけているのです。

 そこで。

 宿の主人か、この部屋に入ろうとしている新しい客かは、分からないけれども。

 とにかく、この部屋に用事がある人が、扉をノックしているのだ。
 僕に、扉を開けてもらうために。

 そう理解した僕は。

 上体を起こしながら。

 ――ちょっと待って、今鍵を外すから。

 そう言おうと、口を開けかけます。

 その時。

 ――ドンッ。

 え?

 僕の動きは止まり、言葉は引っ込みます。

 ――ドンッ。

 え?

 違う。

 それは、扉を叩く音ではない。

 ――ドンッ。

 誰かが、床を踏みしめる音。

 いや、というよりも。

 床の上で、跳ねる音。

 ある程度の体重の、人間が。

 ――ドンッ。

 しかも、それは扉の内側にいる。

 ――ドンッ。

 そして。

 ――ドンッ。

 近づいてきている。

 少しずつ。

 ――ドンッ。

 僕の方に。




 ――ドンッ。

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