見出し画像

ルンビニの悪霊 その② 【旅のこぼれ話】


 目を覚ますと、朝になっていました。

 すぐに、夜中の出来事を思い出します。

 内鍵をかけている部屋の中で、何かが跳ねているような物が聞こえて。

 それが、こちらに近づいてきていた。

 そして、それにひどく驚き、強く怯えている内に――意識が飛んでしまったのだ。

 僕は、慌てて周囲を見回します。

 朝日の差しこむ部屋の中、勿論、僕一人しかいません。

 僕の持ち物に誰かが触ったような形跡はないし。

 他の二つのベッドは、きちんと整えられたまま。
 人が使ったような形跡は、一切ありません。

 それを確認してから、急いで起き上がった僕は、ベッド脇に置いた靴も履かずに、扉に駆け寄ります。

 ――内鍵は、掛かったままでした。



 つまり、と僕は思いました。
 全部、夢だったのか、と。

 
 内鍵が掛かっているのです。
 誰も入って来れる筈がない。

 百歩譲って、なんとかして外からそれを外した侵入者がいたとしても。

 その人物が出て行く際にその内鍵をまた掛け直すなんてことは、出来る筈もないし――そもそもそんなことをする必要もないでしょう。


 侵入者などいなかった。
 つまり、昨夜の経験の正体は、夢であるという以外の答えなど、あり得ない。

 そうは思うのですが。

 ――本当に夢?
 ――あれだけ現実感があったのに?

 そんな思いが、すぐに浮かんで来ます。


 そう考えている内に。
 徐々に、恐怖心が増して来ます。


 既にすっかり明るくなっているというのに。

 周囲は、余りに静か。
 物音一つ聞こえない。

 こんな明るい部屋の中でも――何かが現れるのではないか。
 昨夜のように、何かが部屋に入り込んで、大きな音をたてて、僕の方に跳ねて来るのではないか……。


 そんなイメージが湧いてしまい。
 僕は、震え。

 咄嗟に、部屋を飛び出してしまいました。


 それから暫く僕は、村の中を歩き回りました。
 明るい日差しの元、何人かの村人達とすれ違っている内に、ようやく気持ちも落ち着いて来て。

 やっぱりあれは夢だったんだ、と納得することは出来ました。

 でも。
 今夜のことを想像すると――どうしても怖くなる。

 僕は、暗闇の中、静寂の中、一人っきりで、あの部屋で、眠らねばならない。
 ――不意に、何か聞こえて来るのではないか、と怯えながら。

 それは、途轍もなく恐ろしいことに思えます。

 そして、僕は決意をします。
 今すぐこの村を出よう、と。

 何時間道端でピックアップトラックを待ち続けることになるか分からない。

 けれども、またあんな体験をするよりはマシだ。


 僕は急いで宿に戻ります。

 二階に上がり、僕の泊まっていた部屋に入る。
 それだけで湧き上がって来る恐怖心を押し殺しながら。
 扉を開けっ放しにしたまま、手早く荷物をまとめる。

 そして、階段を駆け下ります。


 出口の横の椅子には、宿の主人の息子が座っていました。
 二十歳過ぎの彼だけは、片言の英語が話せます。

 僕はその息子に、今すぐ出て行きたい旨を伝えます。

 安宿というのは、全て宿泊代は前払いなので、余計な支払いはありません。
 息子が頷くと、それでチェックアウトは完了です。

 けれども、急いで宿を離れようとする僕を、息子は引き留めます。

 ――ピックアップトラックはまだ来ない。
 ――急ぐ必要はない。
  
 そんなことを言って。

 チャイを出して、僕を引き留めます。

 僕にしても、砂埃舞う道端で、中々来ないトラックを待つのは乗り気になれない。

 やむを得ずそこに腰を下ろし、息子の話し相手をします。


 息子は、次々色んなことを話しかけて来ます。
 けれども、英語を使うことは僅か、多くがネパール語。
 殆ど理解出来ません。

 それでも、相手に合わせて愛想笑いをしている内に。
 息子の話題も尽き。

 沈黙が流れます。

 けれども、トラックはまだまだ来ないし、チャイは冷めてもいない。
 ADHDの僕は、沈黙の時間が苦手でならない。

 僕は慌てて話題を探し。
 そして、ただ一つ思いついたテーマについて、尋ねます。


 ――昨夜の出来事について。

 夜中、内鍵のかかった部屋の中、ドンッドンッという音。 

 そういう内容のことを、身振り手振りを交えて繰り返し伝え。

 ――この宿には、幽霊でもいるのか?
 そう、冗談めかして尋ねます。

 息子は、キョトンとしていましたが。

 突然、ああ、と大きな声を上げました。


 そして、身を乗り出して言います。

 ――ジュンドラ。
 ――ジュンドラ。
 
 僕はキョトンとします。

 ジュンドラ?
 勿論、英語ではない。ネパール語でしょう。
 そして、その単語の意味がまるで分からない。

 ジュンドラ、ジュンドラ。
 そう繰り返した彼は。

 部屋の隅にある、一メートルほどの棒を指さし。

 ――ファイト、ファイト。
 そう、繰り返しました。


 何を言っているのか、まるで理解出来ず。

 愛想笑いを浮かべたままの僕に対し、息子も何か気まずさを感じたのでしょう、やがて口を閉ざします。

 こういう雰囲気が大の苦手である僕は、急いでチャイを飲み干すと、有難うと礼を言って、宿を後にしました。


 それから数時間を、砂埃舞う道端で過ごし。
 ようやく現れたトラックの荷台に乗り込みます。

 トラックは凹凸激しい道を走り始める。

 それはやがて、聖地公園の横を通り過ぎます。


 と、公園の中を歩く、袈裟を着た僧侶の姿が目に入ります。

 聖地公園の中には、様々な国の寺があり。
 中には、日本寺もあります。

 あの僧侶は日本人なのだろうか、そう思って目で追っている内に。

 その僧侶が手に持っている、杖に気付きます。


 錫杖だろうか?
 日本以外にも、錫杖があるのだろうか?

 そんなことを思った時に。

 僕はようやく、あの宿の息子の言葉の意味を、理解をするのです。


 ――ジュンドラとは、悪霊のことなのだ。

 

 


 

 


 



 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?