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なめられていることに気付けないADHD 【ADHDは荒野を目指す】

 5-6.

 台湾人女性と結婚し、台北に移り住んだ僕は、日本人子女向け進学塾を無事に設立します。
 生徒も集まり、上々のスタートを切りますが、中国語がうまくない上に、ADHDである僕には、経理が出来ない。
 そこで、ある日本人コンサルタントに経理部門のみ業務委託することを考えますが、その価格が月十万円と高すぎることで、怯んでしまいます。

 しかも。
 妻のリーファは言うのです。

 ――台湾人の記帳士であれば、月三千円でいい。
 ――確定申告には別料金がかかるけど、これも一万円程度。
 ――絶対にこっちを選ぶべきだ。

 妻のリーファは頑強にそう主張します。

 いや、でも、と僕は言います。
 日本語の通じない相手に、経理という重要な仕事を任せるのも不安があるのです。
 それに、南野は日本人会の大物です。
 彼に依頼すれば、そこから色々人脈も広げさせてくれるのではないか。

 けれども、リーファは首を左右に振ります。

 ――あの人は絶対に駄目です。
 ――あの人は、大物なんかではないですよ。

 僕は驚きます。
 ――だって、リーファの会社も契約しているコンサルタントなんだろ?

 確かにうちの会社と契約はしていたけど、とリーファは言います。
 ――台湾人社員に新人研修をしてもらうだけ。それも、高すぎるし効果もないから、来年からは契約をしないって。
 ――今たくさんの会社から契約を切られて、全然お金がないって噂ですよ。

 そうなのか、僕はまた驚きます。

 そして、ふと思います。

 最後の姿。
 タクシー代一万円――この価格も法外ですが――の為に、老体に鞭うって、エレベーターではなく、階段を駆け上がって来た姿。

 お金が欲しくてたまらないようにしか見えない。

 勿論それは悪いことではありませんが――それでも、大物の姿には思えない。

 そう考えだすと、思考が一気に動き出します。

 こちらが客であるのに、ずっと上から目線だったことから、タバコを勝手に吸ったこと、法外な値段を平気で出してくること、そして最後のタクシー代の駄目押し――申し訳ないけどという言葉もなく、いいか絶対ちゃんと払えよ、という口調。

 ――なめられている。

 僕はやっとそこに気付きます。

 右も左も分からない若造から、お金を搾り取ろうとしているだけだ。

 しかもその本心を、笑顔で覆い隠そうとすらしない――厳しい顔で、あからさまな欲求をひたすら突き付けて来ている。


 遅ればせながら、怒りが浮かび上がってきます。

 ADHDの僕には、よくあることです。

 こちらを馬鹿にするような態度をとってくる人と対する時。

 若い頃はすぐに怒りの感情にとらわれ、言い返したりしたのですが――それで失敗し、痛い思いをする経験が積み重なって来ると、まるで逆の対応になっていたのです。

 向かい合っている時は、自分はどう返答するべきか、自分はどういう態度をとるべきか、そんなことを考えて頭が一杯になり、相手の言葉をただただ受け入れてしまうのです。

 けれども、後になって思い返してみて、ようやく、馬鹿にされていたのか、と気付くのです

 その際の怒りは、対面していた時のそれよりも遥かに強い物になる。

 この時も、ようやく僕は怒り狂いました。


 そして僕は、その日のうちに、台湾人の記帳士と契約しました。

 するとすぐ記帳士から、統一発票――インボイスのことです――の用紙が送られてきました。
 それぞれの紙に、しっかりと金額を記さなければならない。
 通し番号があるせいで、書き損じても、それをただ破棄することは出来ません――誤魔化したと思われてしまう。
 決まった様式で、きっちり書き直さなければならない。

 不注意ADHDである僕にはかなり厄介な作業ですが、それでも、やるしかありません。

 精神を摩耗するものでしたが――それでも、南野に馬鹿にされながらお金を支払うことよりは、ずっとマシです。
 その仕事を僕は懸命にこなします。


 そんな中。

 出来るだけ丁重な断りを入れた僕に対し、南野から怒りに満ちたメールがやって来ます。

 ――ここまで協力してあげたのに、これはどういうことだ。
 ――人の信用を裏切るというのは絶対にやってはいけないこと。
 ――H舎のやっていることと同じじゃないか。
 ――こんなことをしていると、お前は絶対に台湾社会でやっていけないぞ。

 しまった、と僕は思います。
 断り方が悪かったか。
 せめてメールではなく電話にするべきだったか。

 でも、聴覚情報処理障害を持つ上に、不注意な僕は、電話では相手の言葉も聞き取れず、こちらの言いたいことを伝え間違えることも多い。
 何度も何度も修正しながら意見を述べられる、メールの方がずっと良いのは確かです。

 それでも、今から詫びの電話を入れようか――そう思いながらメールを最後まで読んだところで、僕は転びそうになります。

 ――ここまで無償の協力してあげたのは、今後も長いおつきあいになると思ったからこそ。
 ――でも君がこういう裏切りをするなら、こちらも相応の対応をする。
 ――ここまでのコンサル料十万円を、十二月五日までに振り込むように。


 はあ?

 流石に、怒りが沸き上がります。
 なんだこれは?

 南野は何をした?
 確かに、塾設立を考えていた時に、無償で相談には乗ってもらった――三十分だけ。しかも彼は、塾を設立するための法的規制を何も知らなかった――少なくとも、一切口にしなかった。

 そして今回経理のことで話し合ったのが、二回目の接触です。
 彼と会ったのは、それで全てなのです。

 無料相談をしただけ、契約に関しての話し合いをした――そして条件が折り合わず破談になった――だけ。

 どこに、十万円も支払う意味があるんだ?
 僕をなめすぎだ――ふざけるな、と僕は思います。


 僕は怒り狂いますが――それでも、このメールを無視しきるほど、気が強くはありません。
 現在の経営状態はともかく、南野に人脈があるのは確かでしょう。
 僕の悪評を言い触らされたり、それこそ訴えられたりしたらたまらない。

 気持ちを落ち着けてから、懸命に腰を低くしたメールを送ります。

 ――まだ設立したての塾、私の力不足もあって利益も殆どなく、経理を依頼するだけの余裕もなく、ご期待に応えられず本当に申し訳ありません。
 ――コンサル料も支払うのはかなり厳しいです、どうにかなりませんか。


 南野の返事はシンプルな物でした。
 ――このコンサル料は規定通りの金額。十二月五日までに絶対に支払うように。

 僕はまた怒りの勘定を募らせます。

 妻のリーファも怒り狂いますが――それでも、仕方がないんじゃない、と言います。
 ――あの人、面倒な人ですよ。
 ――十万円ぐらいさっさと支払って、関係を断ったらいいじゃない?

 そんな馬鹿な、と僕は思います。
 十万円というのは大金です。
 あり得ない、と思うのです。

 無視する――ほどの勇気はありませんが、せめて値引きはしよう、そう心を決めます。

 ところが。

 その翌日、朝九時に電話が掛かってきます。

 夜遅い仕事であるため、寝ぼけ眼の僕は、それを一瞬無視しようとしますが――自宅兼教室にかかってきた電話なのです。仕事関連の電話である可能性が高い、急いで受話器を取ります。

 聞こえて来たのは、南野の声。

 ――早く支払ってくださいよ。十万円。

 寝ぼけた頭のまま、僕は慌てて、いや、いや、それはおかしい――そう言おうとしますが、うまく喋れる筈もありません。

 ――いいですね。十二月五日までですからね。

 そう言って、南野は電話を切ります。


 そして。
 それから三日おきに、朝の電話がかかってくるのです。

 僕は辟易し、怒り――そして恐ろしくなってきました。

 もう嫌がらせレベルだ、と。
 本当に、このままでは何されるか分かったものじゃないぞ、と。
 何せ知り合いは多いであろう人です、悪評を流されることだけはどうしても避けたい。

 そして、折しも、最初の売り上げが入っていた時でした。
 ――授業料、教材費、合わせて六十万円以上のお金が。

 H舎勤務時代は月収二万円で、独立後は収入ゼロ、むしろ持ち出しばかり。
 そんな僕にとって、それはとんでもない大金にしか思えません。

 そして気が多くなった僕は、思ったのです。
 ――これはもう、仕方のない投資ではないか、と。

 かつて、大家に二十万円だまし取られた時同様、勉強代として諦める。
 その代わり、今後絶対に同じ失敗はしない。

 未来の為の投資だ、と。


 そして僕はそのお金を振り込み、南野との関係を断ったのでした。


 かくして。

 生徒も集まり、営業許可も下り、経理も整い――塾はようようにして、軌道に乗り始めます。

 時は十二月。受験間近です。
 しかも、帰国子女入試というのは、一般入試より前、この時期に始まるものも多い。
 いよいよ本番だ――僕は気合を入れて、指導に臨もうとします。


 けれども、そんな時。
 ついに、恐れていた――けれども、来ないことを祈っていた――ものが、僕に元にやってくるのです。

 裁判所からの、訴状が。

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