台湾にて、三千万円請求の訴訟を起こされる 【ADHDは荒野を目指す】
5-7.
台湾人女性と結婚し台北に移住した僕は、日本人子女向け進学塾・H塾に就職しながら、脱税犯に仕立て上げられた上に、月給二万円の待遇に落とされます。
その怒りから、僕は極秘裏に独立を計画。様々な障害を乗り越え、無事に社員一人の進学塾を開業、生徒も集まり、順調なスタートを切ります。
しかしそこで、H舎が様々な妨害行為を始めます。当局への密告、侵入者、日本人会での誹謗中傷。
それでも、どうにかそれらの妨害をはねのけ、ようやく利益を上げ始めた、ある日。
僕が昼食を買いに外に出て、自宅兼塾に帰って来た時、一階の郵便受けに、何かの不在票が貼られていることに気付きました。
それほど気にせずにそれを手にするとと、自宅に持って帰ります。
郵便局からのものなので、放っておいても再配達されるだろう。そう思った僕は、授業準備、授業と忙しく動いている内に、その通知のことを忘れていました。
けれども夜、勤め先から帰っていた妻が、その不在票を見て険しい表情をします。
――裁判所からだよ。
僕は驚き、改めてそれを眺めると――確かに差出人として「台北地方裁判所」なる名前が書かれています。
まあ、と僕は慌てて言います。
――会社の登記に関する書類か何かでしょ。
――でも、天母派出所に取りに来い、って書いてますよ。
リーファが不安げに言います。
ただの書類なら、警察に置かれることはない。
ということは、まさか――まさか。
そう思いながらも、僕は急いで準備をします。天母派出所はすぐ近くにある交番であり、警官が常駐しています。
妻と僕は、小雨が降る中その派出所へと急ぎます。
派出所に入ったところにいた警察官に、リーファが声をかけます。
警官は僕の身分証を確認すると、軽口を叩きながら奥の棚を漁り、分厚い小包を出して来ました。
僕とリーファはまた雨の中を走り、自宅兼塾へと戻ります。
震える手で開封したその包みの中には、ホッチキスで止められた分厚い冊子が入っていました。
――民事告訴状、と題したその冊子には。
原告欄に、H舎と、その名義上の代表者である台湾人、楊明博の名前。
被告欄に、僕の塾の名前、名義上の代表者である義母フォンチュの名前、そして僕の名前。
――フォンチュとベイシャンは、ベイシャンがH舎との間に交わした労働契約書に明記されている内容を無視して同業種の会社を作り、不当に生徒を誑かし、自分の勤務する塾へと引き抜いていった。
――その為、契約書に書かれている通り、ベイシャン塾の営業停止と、損害賠償として、引き抜いた生徒全員の五年分の授業料の総計三千万を請求する。
訴状にはそう書かれていました。
それに加えて、僕のサインのある労働契約書のコピー、引き抜かれた生徒の名前と授業料のリスト、さらには僕の塾のウェブサイトを中国語訳したものが添付されています。
僕は、呆然としました。
――自分が、H舎と取り交わした労働契約書に反した行為をしていることは、勿論分かっていました。
というよりも、そもそも、塾講師が生徒を引き連れて独立する――というのは、日本でも時折問題になることであり、裁判沙汰になったケースも幾つか知っています。
そして、独立した講師が、賠償金を支払わされたケースも。
だから、僕がH舎に告訴される可能性については、頭にありました。
でも。
でも、H舎はそれをしないだろう、と僕は思っていました。
何せ、税法違反やら著作権法違反やら労働基準法違反やら、法律違反の行為を平気でしている彼らなのです。
そんな彼らが、まさか公権力の力を頼ったりしないだろう。
そんなことをすれば、下手をすれば自分達の犯罪が暴かれ、藪蛇になるのではないか――そう考えて、H舎は自重するだろう。
僕はそう考えていたのです。
ところが。
彼らはそれを実行してきた。
プライドが高く、かつ酷く冷酷な金村のことです。
自重しようとは思えない程――多少の犯罪がばれても、罰金を支払えばすむのだし――、僕に対して怒っているのかも知れません。
或いは、次の裏切り者を出さないように、必要以上に厳しく出ているのか。
どちらにしても――僕は蒼白になります。
もし彼らの言い分が認められれば、塾は営業停止、さらに三千万円の支払いが課せられる。
とんでもない借金を背負い込み、仕事すら奪われる――絶望的な状況に陥るのです。
人生の終わり、と言っても良い。
――とにかく、弁護士を探すしかありません。
早速、妻のリーファが知人を当たり、蔡という名の弁護士を探し出してきました。
ある日の午前、半休をとった妻と共に、その弁護士事務所を訪れます。
現れた蔡弁護士は、妻の話を聞き、訴状を読み、そして言いました。
――これは、勝てないね、と。
――契約書明記されている内容に、君ははっきりと違反したんだから、そりゃ罰金を支払わなければ駄目でしょう、と。
僕は急いで言います。
――でも、彼らは僕の税金を支払わず、その上僕を解雇同然の立場に追い込んだんですよ。
――それはそれ、これはこれ。
蔡弁護士は明快にそう言います。
――それが事実だったとしても、それは別途訴えればいいだけの話。
――この話とは一切関係がない。
確かにその通りだ――僕は頷かざるを得ません。
――だから、戦う方針はただ一つ、損害賠償の減額を求めることだけ。
そして蔡弁護士は、リーファから話を聞きつつ計算を始めます。
契約書には、引き抜いた生徒五年間の授業料を支払うと書かれているが、実際のところ、駐在員家庭は転勤が多く、台北に五年間も通う生徒は殆どいない。
しかも、受験生達は半年後には日本に帰ることが決定している。
さらに、彼らが提出した、引き抜かれた生徒の名簿はいい加減なもので、一旦僕の塾に入りながら、説得に応じてH舎に戻って行った生徒五人も含まれている。
――それらを加味すると、賠償金は一千万円程度には出来るだろう。
――営業停止は避けられないだろうけどね。
僕は、完全に打ちのめされます。
懸命に作り上げた塾が、殆ど授業料を取れない内に、営業停止。
その上、うまく行ったとしても――借金一千万円。
完全な、破滅です。
そんな馬鹿な。
僕が一体何をしたと言うんだ?
ただ真面目に働いて来ただけだ。
それでもH舎が僕を追い出そうとしたから、自分の塾を作っただけだ。
その後も、あくどいH舎と対抗するべく、出来るだけクリーンな経営をしてきた。
僕に問題があるとすれば――勤務開始の日に、労働契約書にサインをしてしまったことだけじゃないか。
それだけのことで、僕は、破滅をしなければならないのか?
僕は暗澹とした気持ちのまま弁護士事務所を出て、仕事場に行く妻と別れ、トボトボと塾に戻ります。
理不尽だ――こんなことはあってはならない。
そう思いながら塾に帰りつき、とりあえず授業準備をしていた時。
郵便局員がやって来て、サインと引き換えに、一通の封書を手渡しました。
裁判所からのもの。
僕は急いで中を改め、そして――思いがけない内容に、呆然とします。
そこには、こう書かれていたのです。
――この裁判は、打ち切りとする、と。
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