小学生のような言い訳を繰り返す弁護士 【ADHDは荒野を目指す】
5-13.
台湾人と結婚し台北に移住した僕は、日本人向け学習塾を設立しますが、元の勤め先である塾・H舎から、再三の嫌がらせを受けた上に、民事訴訟も起こされます。
賠償金三千万円に、営業停止処分を求めるこの裁判、敗れれば破滅です。
そして迎えた、第一回口頭弁論。
通常であれば、『準備状』と呼ばれる、それぞれの主張をまとめたの書面を、弁護士が読み上げるだけの時間です。弁論時間よりも、次回開催日時の調整をする時間の方が、ずっと長くなる。
そんな、意外なことなど何一つ起こらない筈の、最初の口頭弁論なのですが。
今まで聞いたこともない、とんでもないことが起こった、と陳弁護士は言うのです。
一体何なのか――不安を覚えながら尋ねる僕に、陳弁護士は言います。
――原告が、連絡もなく欠席した、と。
つまり、H舎の人も、H舎が雇用している弁護士も、法廷に現れなかったのです。事前に連絡をすることもなく。
――勿論、病気などが原因で、被告や原告が欠席することはある。
――また、バックレるつもりで、被告が欠席することも良くあります。
――けれども、三千万円という巨額の損害賠償請求訴訟を起こした原告が、何の断りもなく、初回の口頭弁論を欠席をするなんて、前代未聞です。
裁判の知識など殆どない僕も、その出来事の異様さは理解出来ました。
――被告が連絡もせず欠席した場合、原告の主張のみが認められ即日結審することはあります。
――けれども、原告はちゃんと準備状を提出していることもあり、流石に結審はしません。
――原告は準備状通りの主張をした、と見做されて、それで終了です。
――だから、これで何か有利になった訳ではありませんが。
――ただ、H舎に対する裁判官の心証は良くないでしょうね。
それはそうだろう、と僕は頷きます。
――でも、どうして裁判を欠席したのでしょう?
分かりません、と陳弁護士は言います。
――こんな事態は初めてなので、見当もつかない。
僕も見当がつきません。
ただ、相手は既に、訴訟を起こす裁判所を間違えるというポカを犯しています。
今回もミスだとすると――いよいよおかしな相手です。
そしてその一か月ほど後、第二回の口頭弁論が行われました。
今回も原告が欠席し、裁判は流れてしまう――そんな風なことを期待していたのですが、流石にそうは甘くありません。
少し遅刻はしましたが、かなり年を召した弁護士がちゃんと現れたそうです。
けれども、この弁護士が曲者でした。
彼は、第一回口頭弁論を欠席した理由を、こう述べたのです。
――口頭弁論の日時を伝える書面を受け取った事務所受付の女の子が、それを自分に渡すのを忘れていたから。
おいおい。
何だその言い訳は。
小学生か。
流石の僕も呆れます。
さらに――続いて行われた主張も、何かおかしい。
『競業禁止』が成立するための――つまり、社員が退職後に同業につくことを禁じるためには、そもそも「盗まれると損害を被ってしまうような高度な機密」が存在していなければなりません。
機密などないような仕事――例えば果物のピッキングをしている人が、他の農場に転職することを、元の農場が妨げることなど、許される筈がありません。
そして、普通に考えれば、ただの進学塾にだって「機密」などある筈がない。
一応は『生徒名簿』は大事なデータです。しかし、台湾日本人会が、会員に配布している名簿はさらに詳しいものであり、勿論退職前から僕はそれを保持しています。
H舎の名簿を持ち出す理由などありません。
そこで裁判官が、H舎には「高度な機密」が存在するのか、と尋ねると、弁護士は、存在する、と断言します。
ではそれは何か、と裁判官が問うと、H舎弁護士は言うのです。
――それをここで話してしまえば、ベイシャンにその機密が知られてしまうじゃないか。だから言えない。
おいおい。
それをベイシャンが盗んだからこそ、訴訟を起こしたのではなかったのか。
どうして今更、それを知られることを恐れる必要があるのか。
小学生か。
素人の僕ですら、突っ込まざるを得ないような答弁を繰り返す弁護士です。
その後、第三回、第四回口頭弁論と回を重ねても、その弁護士はまともな主張を繰り出すことが出来ません。
どうやら、かなり能力が低いか、やる気がないか、或いはその双方か――どれにしても、大した弁護士ではないようです。
――勝てる可能性は高いですね。
陳弁護士はそう笑顔で言い、僕は嬉しくなります。
しかもそこに、もう一つの良いことが起こります。
僕はそもそも、脱税犯でした。
とはいえ勿論、故意の犯罪者ではありません。
H舎勤務時代、H舎は、僕の給与から源泉徴収した分を納税する義務があったのに、これを一切行わなかったのです。
お陰で僕は、かなり高所得者でありながら、納税をしていない脱税犯になってしまっていたのです。
これは、ずっと引っかかっていることでした。
脱税が横行する台湾社会、僕などが摘発されることは恐らくあり得ないが、それでも、気になって仕方がない。
いっそのこと、自発的に納税し、その上でその分をH舎に請求しようか――とも思ったことはあるのですが。
計算してみたところ、全部で六十万円以上の課税額になります。
H舎時代月給が二万円だったこと、塾設立に大金をかけたこと、開校後もしばらくは授業料を徴収出来なかったこと、そして裁判のための弁護士費用がとんでもなく高いこと――それらのせいで、お金の余裕は一切ありません。
僕が支払ったところで、その後H舎が立て替えてくれることなど、天と地がひっくり返ってもあり得ない。
だから、罪悪感を感じながらも、僕は脱税犯のままでいたのですが。
なんと、陳弁護士が改めて調べた所。
裁判が始まるのとほぼ同時期に、H舎勤務時代の僕の所得税が、延滞金込みできっちり納税されていたのです。
そう。
こそこそ脱税するだけなともかく、司法の場でそれが明るみに出るとなると、流石にまずい――そう思ったH舎が、泣く泣く僕の税金を支払ってくれたのでしょう。
お陰で僕は、脱税犯という汚名、そして罪悪感から、見事に解放されたのです。
H舎が訴訟を起こしてくれてよかった――そんな風にすら思ってしまいます。
さらにもう一つ、裁判とは関係ないことではありますが、吉事が起こります。
難病で一年近く入院していた義妹イーティンが、ついに退院することになったのです。
元々地方都市に義母・義弟と共に暮らしていた彼女ですが、その難病は台北の大病院でしか診ることが出来ない為、僕や妻の暮らす塾兼自宅のすぐ近くの病院に入院していました。
さらにその介護のため、義母もその病院に泊まり込んで居ました。
そんな生活もついに終わり。
残念ながら全治するような病気ではなく、一時的な症状の緩和――「寛解」でしかないのですが、それでも、ある程度以上体は動くようになり、日常生活を送れるようになったのです。
とはいえ、勿論、必ず再発はする病気。
台北の大病院の近くで暮らす必要がある。
そこで義母は、台北郊外に安いマンションを購入しました。そこで、義妹イーティンと義弟ユンリーと共に暮らすことになったのです。
家族のつながりが深い台湾人です。
妻リーファは、日本に留学している時でさえ、毎日のように実家に電話をしていたのです。ネット通話もない時代に。
その実家が近くなったというのは、リーファにとって、素晴らしく幸せなことでした。
毎週彼女はその実家を訪れます。仕事の余裕がある時は、僕もそれに同行します。
同じく台北郊外で娘二人を育てている義姉も、しょっちゅう夫や娘を連れてその実家にやって来る。
十人近い大家族。
皆賑やかに時間を過ごします。
ただでさえ大勢の中では挙動不審になりがちなADHDである上に、中国語もうまくない――しかも地方出身の彼ら同士の会話では、僕の理解出来ない『台湾語』が頻繁に使用されます――僕だけは、どうしてもそこでも独りぼっちになりがちです。
けれども幸いなことに、そこには、僕より中国語が下手な台湾人がいる――義妹の娘、幼児二人です。
その二人と遊ぶことで、僕も楽しく時間を過ごすことが出来るのでした。
そんな具合に。
僕の生活は、ようやく順調なものになりました。
そもそも、塾の方も十分な生徒を抱え、それなりの収入が確保出来ている。
あとは、勝訴の確定を待つだけだ――僕は満足しながらそう思います。
――ところが。
僕のそんな満足など、一瞬で吹き飛ばす出来事が起こるのです。
ある日掛かって来た、覚えのない番号からの電話。
受話器を上げ、相手の言葉を聞いて、僕は呆然とするのです。
――こちらは、警察だ。
――お前に窃盗容疑がかかっている。
――明日、署に出頭しろ。
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