荒野の果てにあったもの 【ADHDは荒野を目指す】
6-40.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。
けれども、創業より九年後、経理の台湾人女性・イーティンが、会社の資金・三千万円を横領していたことが発覚。
さらに、名義上の会社代表・フォンチュの名前で、会社の閉鎖と、僕の台湾ビザの失効まで告知されてしまったのです。
僕は、なんとかこの事態を食い止めようと、有能な部下である小迫に連絡を入れようとしたのですが。
電話が、つながらない。
小迫が電話に出ない、という訳ではありません。
発信音がしないのです。
慌ててスマートフォンのモニターを見ると、圏外、という表示。
僕は舌打ちをしながら、何とか電波が入るよう、ウロウロしたり、幾つかの操作をしたりします。
しかし、電波は戻って来ない。
台湾ではよくある話です。
でも、こんな大事な時に、どうして。
僕は苛々しますが、すぐ近くに、このスマートフォンを契約した電話会社の販売店があることに気付きました。
急いで、その販売店へと向かいます。
あいにくの先客がおり、僕はそこで十分以上待たされました。
客と店員は、電話とは関係のない話題で、仲良く話し込んでいます――台湾では良くある話です。
どうしようもありません。
さらに苛々して待ちますが、その間も、電波は戻って来ません。
それでも、ようやく僕の順番が来ました。
僕は急いで電波が入らないことを告げます。
窓口の女性は僕の電話番号を尋ね、コンピューターに向かい何かを入力し、そしてモニターを眺めながら言いました。
――その電話は既に契約を終了しています、と。
え?
僕はひどく驚きました。
勿論僕には、そんな手続きをした覚えはありません。
おかしい、もう一度調べてくれ、そう言おうとした時に、ようやく僕は気付くのです。
そのスマートフォンは、僕名義で契約したのではない。
会社名義で契約しているのです。
そうしておけば、プレイべーとでどれだけ使っても、経費とみなすことが出来る――税金対策になるのです。
そして、会社契約のものであれば――会社の印鑑を持っている人物であれば、勝手にその契約を終了させることが可能なのです。
やられた。
僕は頭を抱えます。
そして僕は、その販売店を飛び出します。
家に戻れば、インターネットにアクセスできる。
それで小迫に連絡を取ろう。
とにかく急がないと。
イーティンにもっといろいろなことをされる前に、出来るだけ早く小迫に連絡を取らないと。
僕は、自宅に向かって走り出そうとしたのですが。
ふと、足を止めます。
ちょっと待てよ。
自宅のインターネット回線も、使えなくなってはいないだろうか?
――どういう契約だったっけ?
会社契約ではなかったっけ?
それなら、そちらも勝手に契約終了されている可能性はないか?
――どうだったっけ?
――そうだ、あれは部屋の賃貸契約に付随していた。
だから、部屋がある限り、インターネットは使える……。
――いや、違う。
とんでもない事実に気付き――僕は息を呑みます。
――僕の住む部屋だって、会社名義の契約だ。
社宅扱いで、経費にする為に。
――ということは。
会社名義だった僕のスマートフォンの契約を、勝手に解除されたように、僕の部屋の契約だって、勝手に解除されているのではないか……。
もし、そうだとしたら。
僕は、資産や会社やスマートフォンだけでなく――住居さえ失ったことになる。
その事実の前に、僕は、呆然とします。
もう、僕には行き場所がない。
そもそも、ビザすら失効してしまった。
と、なると――もう僕は、日本に戻るしかないのか?
僕は懸命に働いて来たのに、会社を成功させていたのに、多くのお金を稼いできたのに。
一人の女性の、余りに卑劣な振る舞いの為に――全てを失い、日本に帰るしかないのか。
逃げ帰るしかないのか。
そんな馬鹿な、そんな酷い話があるか……。
そう思ったその時、僕は気づきます。
――いや、違う、と。
日本に逃げ帰ることはない、と。
僕は昨夜の出来事を思い出します。
ファーストフード店にて、僕の持つクレジットカードに認証エラーが起こったことを。
そのカードは勿論、会社名義。
――間違いなく、そのカードは止められている。
そして僕は、個人名義の銀行口座を持っていない。
つまり、今の僕が持っている全財産は。
――今、財布の中にある、数千円だけ。
そう。
日本への航空券代すら、僕は持っていないのです。
――台湾のどこにも行き場のない僕は、日本に逃げ帰ることすら、出来ないのです。
体中に、力が入りません。
道端に座り込みそうになった僕は、フラフラと歩いて――すぐ近くにあった公園に入り、ベンチに腰掛けます。
夏の台北、晴れ渡った昼前。
途轍もなく明るい世界なのに――僕の目の前は、暗い。
僕は、これからどうなるのだろう。
明日は、どうなっているのだろう。
今夜は、どう過ごすのだろう。
――何も、見えないのです。
何も持たずに台北に降り立って、十一年余り。
裁判や犯罪行為で追い詰めてくる商売敵、食い物にしようとするコンサルタント、浮気をして出て行く妻、社長を罵って辞めて行く社員、脱税をし社員を虐める経理。
そんな連中が跋扈する世界を――荒野のような世界の中を。
妻を無視し、社員を突き放し、自殺を試みた友人を見捨てながら。
それでも、ただひたすら突っ走り続けて来た僕が、最後に行き着いた場所は。
――暗闇、でした。
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