横領犯を脅迫しようと決意するADHD社長 【ADHDは荒野を目指す】
6-36.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。
けれども、ADHDである僕には、会社運営などうまく出来ません。特に人事は壊滅的で、オフィス内にはギスギスした雰囲気が漂い、辞めて行く社員の多い。
その上、台湾人の妻とも関係がうまく行かず、結局離婚。
そんな状況でも、肥大化した会社を支えるために、僕は週休ゼロ日で働き続けなければならず――肉体的にも精神的にも、どんどん疲弊して行きます。
さらに、旧友であった社員の自殺未遂などもあり、ついに僕は、人生のやり直しを決意。
塾の閉鎖に向けて、ゆっくりと準備を始めたのですが。
そんなある日、三千万円以上あると思っていた会社の口座に、殆どお金が残っていなかったことが分かります。
慌てて調べたところ、経理の台湾人女性・イーティンによって、横領されていたことが判明するのです。
そこで僕は、イーティンを説得し、お金を返金させようとしますが。
これを完全に、拒否されてしまうのです。
イーティンとの話し合いを終えた僕は、一人帰途につきます。
既に夜中。
人気のない道を――野良犬が走り回る道を、歩きます。
気持ちがフワフワ浮かんでいるような感じなのですが。
そのくせ、体はズシンと重い。
事態が余りに衝撃的すぎて、現実感がないのですが。
現実にしっかり対処をしなければ、さらにまずいことになる。
その狭間で、おかしな状態になっているのでしょう。
人生で初めての状態――ではありません。
十数年前、アフリカのザンビアで、睡眠薬強盗に遭って、全てを盗まれた時と同じです。
いや、あの時は、全てを盗まれた上に、逮捕までされそうになった。
それに比べれば、ずっと状況はマシ。
だから、あの時と同じように、今回も何とか切り抜けられる。
僕はそう自分に言い聞かせます。
けれども。
イーティンが夕食を買ってくれていなかった為に、途中で寄ったバーガーショップにて、クレジットカードに磁気エラーが出てしまい。
台湾では良くあることですし、結局注文キャンセルで一銭も取られずに済んだものの――気分はまた落ち込んでしまい。
結局何を食べる気もなれず、帰宅後シャワーも浴びず、歯も磨かずに、ベッドに潜り込んでしまいました。
アフリカで強盗にやられた日の夜と、同じように。
それでも翌朝、僕の気持ちは随分前向きになっていました。
勿論、三千万円もの大金を失ったことは、途轍もなく痛い。
僕が積み上げた七年もの日々を、全て奪われたようなもの。
けれども、奪われたのは、過去だけ。
現在と、未来は残されている。
今まで通り、僕がいる限り、会社は利益を上げられるし、上げ続けられるのです。
今しっかりお金を稼ぎ、未来もしっかり稼ぎ続ける。
そして、時間をかけて、イーティンを説得――いや、脅すのです。
ADHDで、外国人である僕には、彼女を説得なんて出来る筈がない。
でも、脅迫なら出来る。
そう、警察への告発や、民事裁判をちらつかせれば、誰だって怯えるものでしょう。
小心者ではあるものの、無謀さ故に幾つもの危険な体験をしてきた僕だって、かつて、ライバルのH舎によって警察に告発され、民事裁判を起こされた時には、相当不安になったものです。
まだ若い女性で、しかも難病患者の彼女にとって――そして、病院の外、即ち社会においては、何ら厳しい体験をしていない彼女にとっては、警察や告訴というものは、心底恐ろしいものではないでしょうか。
だから、横領で訴えるぞ、という僕の脅迫は、彼女にとって、十分に効果がある筈です。
うまくすれば、毎月一定額ずつ返金するという念書だって、取れるかもしれない。
それさえ出来れば――かねてからの希望通り、塾を閉鎖し、長い旅に出ることだって、可能だろう。
未来は、まだ奪われていないし。
奪われてしまった過去だって、まだ取り戻せる。
そんな考えが、多少は――いや、随分と気分を明るくしてくれたのです。
何せ、日常に弱い代わりに、非常事態に強いADHDです。
どうにか解決の糸口が見つかると、途端に元気が出ます。
シャワーを浴び、お茶を飲み、時計を見ても、まだ朝九時。
普段なら、昼過ぎに出社する僕ですが。
すぐに出社しようと決めます。
様々な証拠を――彼女が横領をしていたという証拠を、押さえる為です。
会社の収益の記録。社員の給与の記録。
それらは、社内の僕のパソコンの中に入っている。
そして、恐らく、戸棚の中には、もっと様々な書類がある。
納税記録だとか、授業料の領収書だとか――経理に関する書類一切合切を、イーティンはそこに入れていた筈。
そういったもの一つ一つが、貴重な証拠になる筈です。
そして、着替えが完了し、出社をしようとした時。
僕は、自分のスマートフォンにメールが届いていることに気付きます。
見ると、二通の新着メールがあります。
その一通目の差出人を見て、僕は首を傾げます。
それは、僕の塾から送られて来たものだったのです。
そのこと自体は不思議ではありません。
生徒の家庭全員のメーリングリストがあり、その中に僕のメールアドレスも含まれているからです。
そうしておくことで、社員から家庭への連絡内容に問題がないかを、社外からでもチェックできる。
だから、塾からのメールを受け取ることは、何もおかしなことではないのですが。
時間が時間――まだ、朝の九時なのです。
昼過ぎから動き出す業界です。
そんな時間に、社員が出社していることなど、まずあり得ないのですが。
そう、かつて岩城という社員がそんなことをしていたが――そんな風に頑張り過ぎた結果、大事件を起こしてしまった。
嫌な予感がする。
僕は急いでそのメールを開きます。
そこにあったのは。
――弊社は、本日限りで閉業いたします。
――授業料の返還については、追って連絡します。
その二文のみ。
ん?
ん?
何だこれは?
僕はただ首を傾げます。
理解が追いつきません。
そして僕は、半ば無意識の内に、二通目の新着メールを画面に呼び出します。
それは、イーティンの個人アドレスから、僕の個人アドレスへと送られてきたもの。
そこに書かれていたのは。
――会社の閉鎖に伴い、べいしゃん先生の台湾ビザは失効します。
――法律通りに、三日以内に台湾から退出して下さい。
――よろしくご承知下さい。
その、三文のみでした。
ん?
ん?
何これ?
僕はまた、首を傾げます。
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