無能なのに勉強だけは出来た発達障害男性が、50歳にしてようやく理解した「自分の能力の正体」 その③ 【ADHDは高学歴を目指せ】
37.
「尊敬する人」「憧れの人」「手本になる人」。
そういう人が、僕の人生においては一人もいませんでした。
エリートコースにいましたから、「偉い人」「偉くなるだろう人」は、身の回りに大勢いました。
勿論、「いい人」「優しい人」もいました。
けれども、どの一人に対しても、僕は、敬意を抱くことがありませんでした。
理由は簡単です。
「間違いを見つける」ことに関しては、相当に高い能力を持つ僕なのです。
しかも、心の狭い僕なのです。
「偉い人」に対しては、相手がどんな格上であろうと、例外なく嫉妬心を抱き、粗探しを始めてしまう、そんな人間なのです。
僕は、彼ら「偉い人」の「欠点」を、あっという間に見つけてしまうのです。
「勉強は出来るけど面白みのない奴」「優しいけど弱い奴」「気を遣うけどそれがうざい奴」
周囲のすべての人間を、そんな風に判断するのです。
その結果。
「こう生きるべきだ」「こう生きた方がいい」そんなアドバイスを、一切聞かず。
「こう生きた人がいる」「こう生きるのは良い」という手本を真似することもない。
生きて行く道を、一人きりで考えし、一人きりで決断する道を、選ぶことになりました。
そして僕は、再受験だとかバックパッカーだとか国際結婚だとか海外起業だとか、常識はずれの行動を取りました。
ただ、これだけなら、面白い人生になる可能性のある、むしろ良いことに評価されなくもないことですが。
ここで残念なのが、僕は、「間違いを発見すること」に関してのみ、非常に有能だった、ということです。
そう、そんな自分の人生が間違っていることにも、僕ははっきりと気づいていたのです。
親が、確かに全く僕を理解せずただ厳しく接してきたのは間違いる――でも、その親から自立する勇気もないくせに、反抗ばかりしてしている僕も間違っている。
友人や上司は僕をあざ笑うのは間違っている――でも、嘲笑われても仕方のないような行動しか出来ない僕も間違っている。
日本は整いすぎていて頭が固くて間違っている――でも日本に比べてあまりに適当すぎて不誠実すぎて不平等すぎる外国も、間違っている。
自分勝手に不倫をして出て行った妻は間違っている――でも彼女の相手を全くせず、かつ発達障害で失敗ばかりの僕も間違っている。
僕の財産や会社を奪っていった部下や、裁判を誠実に戦おうとしなかった弁護士は間違っている――でも、金銭も訴訟も面倒で一切管理をしなかった僕も間違っている。
コロナを口実に営業停止を命じながら一切補償をしない台湾政府もは間違っている――でも外国での起業というリスクある道を選んだ僕も間違っている。
そんな具合に。
他者の間違いへの怒りを抱き、一旦激しく動き出しても。
やがて自分への間違いに気づき、そのスピードを鈍らせてしまう。
他者も、自分も間違っている。
じゃあ、どうすればいいんだ?
いつでも、そんなジレンマに苦しみながら。
結局、目的地も楽しさもなくふらふらと彷徨うだけの旅をしたり。
目的も充実感もない仕事をただひたすら続けたり。
戦おうとしても中途半端に投げ出したりしてしまう。
そんな、中途半端な日々を送ることになってしまったのです。
結局、そんな日々を終わらせるのは。
卒業だったり、睡眠薬強盗によるパスポート盗難だったり、部下の横領や乗っ取りだったり、コロナウィルスだったり。
そういう、他者でしかなかったのです。
自分自身で始めたものなのに、自分自身で終わらせることも出来なかったのです。
結局のところ。
僕が長い旅を経て、四十を過ぎた頃にようやく理解したのは。
世の中に、間違いのないものなどない。
全員が、必ずどこかは間違っている。
完璧を求めてはいけない。
そんな、単純なことでしかなかったのです。
そして、さらに。
他人の間違っていることばかりをあげつらい、非難することよりも。
そんなものには目を背けて。
せめて、小さくとも、正しいものを見つけて。
そればかりを見て、褒めておけばいい。
――「間違いを見つける能力」など、現実社会ではほとんど無意味なのだ。
そう理解して。
その能力を放棄して。
他人の間違いから、目を背けるようになった。
かつ、自分の間違いをも、直視しないようになったのは。
五十になってから。
兄や父は死に、財産や会社は失われ、若さも失った。
それまで積み重ねた間違いを取り返すことが出来ない、そんな年齢になってから。
試行錯誤から、どうにかある程度の能力を伸ばすことが出来た僕であっても。
人生はあまりに短い。
もはや、この試行錯誤の結果を活かす機会は、ほとんどないでしょう。
どうしようもないことです。
そして今でも。
もし僕に、もう少し高い能力があれば。
自分の間違いなどには、目を瞑り続けて。
突っ走り続けて。
どこか、理想的な場所にたどり着けたのかも知れない。
そう、悔しく思ってしまう時が、あるのです。
そう。
自分の間違い――「自分の間違いを直視してしまう」という「間違い」を、五十になっても、僕はまだ犯し続けてしまっているのです。
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