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落下傘は投下された あとは運に任せる

なんでも練習すればうまくなる という幻想を捨てよう。

なんと悲しいセリフで始まるエッセイなのか。

こんな記事はだれも読みたくない。

でも書く。

真実とは残酷なもの。

え?

そんな事は言われなくても皆うすうす知っている?

そう。

だから問題なのだ。

わかっているけれど練習してしまう。

そうやって貴重な時間が奪われていく。

練習すれば少しは高みに近づけるかもしれない。

別にトップを目指しているわけじゃないし と自分に言い訳をしながら。

でもどこかでうまくなりたいと願っている。

「うまい」ことが正義となり 「へた」 は悪者となっている。

でもそこまでして うまく なる必要はないのだ。

そのジャンルで他にうまい人がいないのであれば、あなたが練習を重ねてうまくなればいいかもしれない。

でもすでにうまい人がいるのに、あなたがわざわざうまくなろうと時間を投資する必要はない。

そもそも「うまくなった」という状態は人によって定義が違う。

ゴールが曖昧なのに、走ることは簡単ではない。

走ったのにゴールがない なんてことにもなりかねない。

で、何が言いたいの?

と思ったそこのあなた。

賢い。

このエッセイにゴールはない。

何も考えずに書き出してしまった。

着地地点は誰にもわからない落下傘状態。

どんな素晴らしい結末を迎えるのか。

そもそもエッセイにはゴールなんてないのかもしれない。

だからいつまでたってもエッセイがうまくならない。

エッセイがうまい という日本語は意味不明だが。

ゴールがないから練習のやりようもない。

八方塞がりだ。

しかし落下傘(エッセイ)はもう投下されてしまった。

思考していくしかない。

そもそも文章を書くことの上達を目的に、エッセイを書く人はあまりいないかもしれない。

文章の上達といっても文章のジャンルによって大きく違う。

ルポライターはきっとミステリー小説を書くことは苦手だろう。
だって真実をすぐに書きたくなって、序盤で 自分が犯人だ  と告白させてしまうだろう。

エッセイストは歴史小説を書くことが苦手だろう。
だってすぐに自分の感情を乗せてしまうから、史実とは異なる内容になってしまうだろう。

ホラー作家は恋愛小説を書くことが苦手だろう。
だって恋愛要素に過去の因縁(呪い)要素を入れてしまうから。

全ての文章をオールマイティに書ける人はいない。

これらの例から練習するには目的を狭めれば狭める程 精度が上がるとみた。

練習しても意味がないと思うのは、その練習の対象が大きいからだ。

野球がうまくなりたい。

テニスがうまくなりたい。

小説をうまく書けるようになりたい。

料理がうまくなりたい。

恋愛を上手にしたい。

お金稼ぎをうまくなりたい。

これらは全て、対象が大きすぎる。

どれも一流を目指すなら、いくら練習をしても無理だろう。

そこにはきっと才能(運)という不確かな要素が絡んでくる。

運も実力の内でしょ?

と思ったそこのあなた。

僕もそう思う。

でも運が来るのを待っていても始まらない。

だから目的を狭めて始めてみよう。

野球やテニスなら、近所のあいつよりはうまくなりたい。

小説なら、過去の自分の作品に比べてうまくなりたい。

料理なら、家族が美味いと笑顔になるぐらいにうまくなりたい。

恋愛とお金稼ぎは第三者がからんで来るので、自分ではコントロールできないが 無練習で挑むには厳しい。精々 本でも読んで心構えを作っておくぐらいか。

こうやってスモールステップを積み重ねていこう。

なんでも練習すればうまくなるという幻想を捨てよう と冒頭で言った。

正確には (最高レベルを目指して)なんでも練習すればうまくなるという幻想を捨てよう ということだったようだ。

昨日の自分より1ミリでも成長していればそれでいい。

少しでも成長した自分を認めてあげよう。

この記事を書き始めた時、僕は「無駄な努力はやめよう」といニュアンスで書いていたが、書いている内に「小さくてもいいから前に進もう」と考え方が変化(成長)した。

えらいぞ僕。

思った事を「なぜそう思ったのか」と考えることが 小さな一歩となるようだ。

「へた」でも気にせずに少しずつ進もう。

これが今日の落下地点のようだ。

うまく着地できてよかった。

落下傘を投下(思う、発想する)して、右往左往しながら(なぜそう思ったのかと問う) 答えにたどり着く(一歩進む)

毎日これの繰り返し。

最終的なゴールも その内見えてくるだろう。

今は一歩一歩を着実に。

ではまた。

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