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"今・ここ"を生きてみる

意識がいま現在に落ち着かず、未来や過去に行ったり来たりして話がまとまらないという人は多い。わたしもそうだ。将来はこうなりそうだ、過去はこうだったから今がこうなってしまったのだ、と考えが悲観的なほうへとずれていく。

なぜ悲観的になるのか。それは、未来や過去のことは、自分にはどうしようもできないからだ。
起こってしまった悲しい過去を思い出しても、その過去を消すことはできない。未来に何が起こるかも当然わからない。もしかしたら明日突然死ぬことだってあり得る。

いきいきとしていた頃と鬱屈としていた時を比べてみた。悩まずに習い事、部活、勉強と忙しく生きていた頃はその日を乗り切ることだけで頭がいっぱいで、後先考えず毎日24時間を懸命に生きていたなぁ、とふと思い出した。

あのとき上手くいっていたのは、"今"しか見ていなかったからだ。根拠もなく自信があって、これをやっても意味がない、どうせやっても無駄、とは考えたこともなかった。がむしゃらだった。

"今"やれることをがむしゃらにやる

今後は"過去"にも満足できるようになる

上手くいった"過去"を元に"未来"を予測する

結果的に"未来"も上手くいくイメージができる!

結局、上手くいかなくなった原因は今やらない自分だった。それなのに、過去のせいにして自分と向き合うことから逃げてラクをしたのだった。
今日は昨日までの積み重ねで、明日は今日までの積み重ね。だけど、いま、自分に変えられるのは今日だけ。いま、この瞬間の、この場しかない。だから、後先考えずに動いてみることにした。

大学の頃、アニメ「スーパーカブ」を見て影響され、すぐにバイクの免許を取った。立ちゴケで骨折したので友人たちは「運転してもいいけど死なないで」と怒ってくれたけれど、1人でどこまででも走れると思ったら、無敵なんじゃないかとまで思えた。
風を切ってのんびりと瀬戸内海を眺める1人旅は、とても幸せだった。初めてしてもらえたバイク乗り同士の挨拶に感動した。バイクに乗る者という絆で繋がっている感じがした。旅の途中で「姉ちゃん!ウィンカー出しっぱなしだぞ!」とトラックのお兄さんに助けてもらったりした。存在を認めてもらえた気がした。少し前まで家にこもって病んでいたのに、わたしもこの世にいていいんだな、となぜか感じた。

こんなこと言ったら引かれるかなぁ、とか考えずにとりあえず仲良くなりたいと思っていたゼミの友人に正直に気持ちを伝えてみることにした。そうすると、意外なことに相手も同じことを考えていてそこからすぐに打ち解けた。お互い声をかけたいと思いながら2年も尻込みしていたのだった。お互い酒が好きだとわかり、赤提灯でべろべろになるまで飲んだ。価値観が似ていて大好きな友人がまたひとり、増えたのだった。

わたしなんかと出かけるの嫌かな、と思ったけれど共通の好きなアーティストが出るフェスに友達を誘ってみた。「忙しそうにしてて、わたしからは誘いづらかったから声かけてくれて嬉しい」と快諾してもらえたりした。2人で参加した夏フェスは、何度思い出しても最高に楽しい体験だった。ステージの演出、音が身体を揺らす感覚、日焼け痕のひりひり感。一日中真夏の屋外にいたので疲れ果てて帰りに立ち寄ったラーメン屋さんで、大盛り味噌と餃子セットをふたりして平らげた。食べ過ぎだね、とぽっこりしたお腹を見てけらけら笑い合った。

簡単なことだった。今ここで出来ることさえすれば、未来はすぐ変えられるのだった。そんなこと当たり前だ、と思うだろう。知識として知っているだけでは、体験したつもりになっているだけだ。そんなものは薄っぺらくて面白くならない。

でも、自分の体験は自信になってくれる。ひとに話せる話題のネタにもなる。自分がどんな人間なのかを紹介できる要素にもなる。やったことは自分の一部になって、自分と一緒に生きてくれる。たとえ将来上手くいかなくても、あのときの自分が全力を尽くしてくれた事実は変わらない。

だから、今ここだけ頑張ることにする。いつかのわたしが、過去のわたしをリスペクトできるように。未来のわたしが、どの時代のわたしも全力だった、と言い切れるように。


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