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【毒親】死にたいのはじまり

※メンタルが疲れすぎている方にとってこの記事は希死念慮を刺激してしまうかもしれないので回れ右してほしいです。よろしくお願いします。








わたしが覚えているのは、10-12歳くらいの小学校高学年のころから、針金のハンガーの中に首を突っ込んで、高めのハンガーラックに引っ掛けてぶら下がってみたら何秒で死ねるかなと考えていたこと。

わたしがまだ小さい頃、父は県外に単身赴任。母は専業主婦で父の地元のど田舎でひとりきりだった。母は弱いひとだった。思い通りに育ってくれない気難しい子どもだったので、よくわたしのことをぶった。使うのはいつも料理器具だった。胡麻をする大きなすりこぎでいろんなところを叩かれた。大根おろしを作るおろし金で頬を打たれた。ありがたいことに手加減はしていたようで、金属のやつじゃなくプラスチック製のほうだったのでそこまで痛くなかった。1番嫌なのは母の太い手でされる平手打ちと、怒鳴り散らすドスの効いた声だった。

3つ下の妹が生まれた。わたしよりもおとなしく育てやすい子だった。でも、母は相変わらずだった。まだ小さいわたしと妹を置いてよくイライラを鎮めるための1人ドライブに出かけていた。その間、妹と自分のご飯はわたしが作るしか無かった。わたしは家が安心できる場所ではなかった。いつ殴られるかわからなかった。いつ母の機嫌を損ねて怒鳴られるかわからなかった。わたしは感情を出すのがひどく苦手になった。

母は家を片付けられないひとだった。友達の家に遊びに行って、初めて自分の家のおかしさに気付いた。友達の家のお母さんは優しかった。わたしにも、自分の息子にも優しかった。なんとなく、自分の家がまともでないということがわかった。

母は自分に自信がなかった。自分のことを考えるとつらいから、なんでもひとのせいにした。お父さんが悪い、あの時ああしていなければよかったのに。あそこのママ友は意地悪で馴染めない。

母は忘れっぽかった。言ったことを10分もすれば忘れてしまうので、わたしが伝えたこともよく忘れた。その時は毎回お前のせいだと言った。わたしは自分はなんて馬鹿なんだろう、お母さんを困らせて悪い子だと思った。

母は体力がなかった。いつも頭痛がすると言って寝込んでいた。自分は甲状腺機能に問題があるに違いない、橋本病に違いないと言って医者に行った。結果は違った。母は漢方を試すようになった。それもあまり効かないようだった。

母は空気が読めなかった。母が話すとその場の空気が凍る音がよくした。わたしは変なお母さんの存在を隠したかった。授業参観や卒業式は苦痛で仕方なかった。あんなに太っているのがお母さんだなんて友達にバレたくなかった。

母は妹を可愛がった。産まれたときから黄疸で、泣き虫だった妹は父より母に懐いてべったりだった。わたしはお父さんっ子だったが、父は単身赴任でほとんどいないようなものだった。

母はわたしを全否定した。お前は妹と違って一重でブサイクなんだからお金を貯めて整形しなさいと言った。スカートを履いたらそんなの履いてどこ行くの、子どものくせに色気付いて、と言った。わたしの意見は通らなかった。母の買ってくる服は母の体型に合うようなものばかりで、細身のわたしにはひどく不恰好だった。母はセンスもなかった。母がわたしにくれたものは、なにもなかった。

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