見出し画像

國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』

國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』を読みました。國分先生の著者の中でも、すごく難しくて進まなかった『ドゥルーズの哲学原理』の次ぐらいに、なかなか進まない本でした。

 この本は哲学書ですが、医学書院というところの「シリーズ ケアをひらく」の一冊という不思議な本です。プロローグが、ある依存症患者との架空の対話によって、責任と意志というものについての一般的な考えの誤謬(しっかりとした意志を持とうとするとクスリはやめられない)、その誤謬の元になっているのは言葉なのではないかと気づくというところから話が始まります。そういう感じで、柔らかく始まるのに、中身は、ギリシャ語の文法の話が大半で、つまり、ギリシャ語に能動態と受動態の区別ができる前の中動態という文法が一体どういうものなのかを、ものすごく精緻な議論で解きほぐし、それとともに哲学の世界における「意志」に関する歴代の概念を考えなおしていく、という本です。

 本の帯には「「しゃべっている言葉が違うのよね」ある依存症当事者がふと漏らした言葉から、「する」と「される」の外側の世界への旅がはじまった。失われた「態」を求めて。若き哲学者は、バンヴェニスト、アレントに学び、デリダ、ハイデッガー、ドゥルーズを訪ね直し、細江逸記を発見し、アガンベンに教えられ、そして新たなスピノザと出会う。」とあり、これを読んでも何のことかわからないと思いますが、読んでみるとまさにこのまんまでした。

 アレントが何度も批判的に引用されつつ、最終的には、國分先生の専門であるスピノザに戻り、人間の自由をどうやって求めるのかという問題を考えます。

 何か実際の生活にすぐに役立つということではないのですが、昨今、脳科学などで「ない」というのが定説になりつつある「意志」というものが、人類の歴史の中および哲学の世界でどのように出現して扱われてきたのか、そしてそれをずっと前から認めない哲学を展開していた(しかし人間の自由を求めていた)スピノザはどう解釈できるのか、というようなことが、ごまかしのない、行き届いた議論で語られている本でした。

この記事が参加している募集

読書感想文