カミさま・下

再掲作品・下
いつか内容そのまま“今”の文章に書き直してみたいものですね
そういう意味でも、再掲として新しいプラットフォーム(?)に載せ直すのは良いことだと思います (主観)
なお、プロ曰く、推敲はやればやるほど悪くなると言われております チャレンジは、一回です
   → 前回(上)





「もういい!」 

焔がぐるんとそちらを見ました。感情的に叫んだのは、馬上の男でした。

「もういい!」

恐怖と嫌気の念を込めて、彼はもう一度叫びました。イブキが感情を露に言葉を発したのは知る限り初めてです。ゼンジのひゅぅっと吸った息が留まります。
満ち足りずに燻る瞳がイブキをぢいっと見つめましたが、彼は大きく何度も首を振って「もういい」と付け足しました。ゼンジの主人も、怖かったのです。ゼンジは安堵して、溶けて消えた悪臭の中にため息を洩らしました。
 
「残念でございます」
「確かに、悪趣味な女だ」
 
 イブキは女を見下ろします。ふっと瞼を下ろすと、女の睫毛は炎を吹き払ってくれたようでした。女は整った所作で立ち上がり、大衆を見回します。その瞳が何かをねだっていることを、ゼンジは感じ取ります。
 
「ひとつふたつ、お願いが」
「雇い入れる余裕ならあるが」
 
女はすうっと頭を下げて、ふわりと頬を染めて頼みました。

「誰か、その腕を噛ませてくださいませ」

 ああ、ついに来た。

その場の者皆が悟りました。皆が顔色を様々に変えます。イブキは腕を組みました。ゼンジは刃先を天に向けました。
彼女が現れたばかりのあの時なら喜んで腕を差し出したでしょう。

しかし、毒を好んで食べる女です。そして、噛むのを嗜み好む女です。

自分たちはそれをもう知っています。惑いました。女の真摯な瞳はますます、ますますに増して期待に潤み、天の川の星屑が溢れ出て、胸元を撫でていた女の指が星粒を掬い上げます。誰も申し出ないのに焦れたと見えた女は、また言い添えました。
 
「ただで噛ませろとは申しません」
「奉公なら好きにするがいい」
「ええ、ええ、拾ってくださるなら嬉しゅうございます。嬉しゅうございます。喜んで働きましょう。しかし私が噛んでよろしいと仰ってくださった方のみに、私ができる恩返しがございます」
「ならば、人でないおまえは何ができる」

「幸を与えます」

 幸。

まばらに声が、ざわめきました。━━幸!

「当然それは人によって違いましょうが、必ずその者が幸福に感じることを」

さあ、ますます、隊はどよめきます。
女に腕を噛ませるだけで幸福が手に入る!

 幸。

しかしその真偽は定かならず、確かめるすべはありません。誰かが噛まれなければ。
そして噛まれた誰かが幸福になったら、それは他者を差し置いて抜け駆けることになります。
けれど狂言を信じ皆が同じように噛まれて、毒で死んでしまったら…。ゼンジも皆と同じように互いの表情を確かめあい、ひょいとあるじの顔を見て、理解できない物を見ました。

 ━━イブキは女を、親の仇でも見るように睨んでいるのでした。

なぜ? どうして? ゼンジにはわかりません。尋ねればわかるでしょうか?尋ねられる空気でしょうか?
ゼンジは唾を飲みます。顔が赤くなり、青くなります。おれが と言ったのに、誰かが振り返ります。

「━━オレが行きます、イブキさま!」

とうとう、ついに名乗り出た者が出たのです。
ざあっと視線が集中しました。それから逃げるために、ゼンジは女の元に駆け寄って、袖をまくって差し出しました。

「お、オレ、オレの腕を噛んでください! それでどうか、鎮まって!」

 幸を与えるモノがなぜこんなに恐ろしいのか、今のゼンジにはわかりません。ですが神鳴りが近くで降り来るような恐怖をその時青年は感じていました。

女は確かにゼンジの腕を噛みました。柔く優しく少し力を込めて。女がどんな顔をしていたかはわかりません。なぜってゼンジはその時、ぐうっと目を閉じていましたから。
異常なモノに会ってしまった。彼女は人食い虎や、母親より怖い。そして、イブキを失うのと同じくらい恐ろしい。

 その後へたってしまったゼンジにはよくわかりませんが、何人かが彼と同じように噛まれに行ったようです。
気付くと女はぼろの上に衣を重ね着し、垂れ絹の着いた笠をかぶって顔がよく見えなくなっていました。そして、女中に囲まれて連れて行かれました。


 予定と同じようにイブキたちは山を越え、ある偉い役人の屋敷に到着しました。
人食い虎が出ると噂された山を一団が通り過ぎたという噂はすぐ山を越え、旅人たちの往来は元に戻りました。ただし、人食い虎の正体が一人の女だったことは、隠されました。

 イブキが女を連れ帰ったことは確かです。
彼は着いてすぐ、貴族の令嬢が住むような部屋と世話係の下女を用意し、…そしてその部屋を檻で区切って、見張りを立てました。

 檻は、週に一度、空きます。
出る時に帳簿に記録されますが、その日だけは男も女も部屋に自由に入ることができます。

 イブキは屋敷の主人のためによく働き、屋敷の住人のために心を砕き、領地に住む町人や村民のために惜しみなく知恵を使っていると聞きます。
ゼンジは己の万全のため、そしてそれはあるじのイブキのため、連日鍛練に励みました。以前と変わらない生活ですが、この異常のない生活をゼンジは愛しています。…否、異常ではありませんが、イブキにもゼンジにも、やることは増えています。



 そんなある日のこと、イブキの部屋の扉が、二度叩かれました。

「入れ」
「……」
「入っていいと言った」
「も、申し訳ありません! やり直します!」
「ゼンジ、またおまえは。手間がかかるから、早く入って来い」
「は、はい! かたじけ、いえありがとうございます! ありがとうございます…!」
 
イブキは先に席を立ち、青年が前にひれ伏す障子を開けます。そして部屋に入るよう、ゼンジに促しました。
ほんのり赤く頬を染めて、ゼンジは促されるまま座布団に座って、差し出された湯飲みを手に取らされました。目を泳がせて沈黙するゼンジの正面にイブキは座ります。座って見つめます。やがてゼンジも、視線に応えるしかなくなりました。
 
「ゼンジ、先日の試合は見事だったね」
「あっ…… …はあ」
 
 ゼンジとしては、急に主人に自室に呼ばれて戦々恐々としていたのが、始まったのが世間話で虚を突かれました。少しだけ、胸を撫で下ろしもしましたが。
 
「アレは、僕らの部隊と屋敷の小隊、どちらが優れているかを競う試合でね。単純に強弱を見極める力試しだ。負けた方は勝った方の部隊にぜひ指南を、という約束になっていた」
「お、恐れ多いです…」
「もう少し正直に」
「こ…光栄で、ございます」
「身分とか関係なしに、その時の気持ちを教えてよ」
「あっ、あるじさまは意地悪です…!」
 
湯飲みに口もつけず両の手で握り締めるゼンジを、イブキはただじっと見つめています。
 
「う、うう…うう嬉しかったです! 誇らしかったです! これで満足ですかあ、あるじさま!」
「ああ、いい返事だね、ゼンジ」
「お戯れを~…!」
 
しげしげと見つめてくる視線に耐えられず、視界を覆うようにゼンジは湯飲みの茶を煽りました。
 実際、あの勝負はギリギリでした。突然の指名に戸惑いながらもあるじの名誉のためならと得物を取り、ここで生活を始めてから幾度か目にしていた剛の者と対面した時は武者震いに後退りそうになりました。
それでもイブキさまの御前と、懸命に得物を振るい、ふと思い立って体を武器に挑みかかり、できた隙に刃先を首筋に突きつけて、「見事」と相成ったのです。

嬉しかった。

歓声も、勝鬨も、強くなった実感も。主人が微笑みかけてくれたことが、嬉しかった。彼のために働いて、その名誉のひとつになれたことが嬉しかった。

 イブキは机の書類を手に引き寄せてそれに目を通しました。
 
「最近色々なことがあったようだね」
「え? オレ?」
「みんなのこと」
 
話を持ち出されてゼンジが湯飲みを膝元に戻すと、イブキと一度目が合って彼の方が書類に目を戻しました。
 
「ああ…そうですね。モロゴは野犬を退治してその村長の娘をもらい受けましたし。アリガは賊の長の首を取って、昇格しました」
「マジールは勉学に励んで、今は役人になるための試験を受けに行っている。オリアナは料理の腕がいいって認められて、屋敷が料理人に取り立てるそうだ」
「他にも、カナンが安く薬の材料を買える行路を見つけたとか、イハジが良い刀槍を打ったとか、ランの求婚が上手くいったとか、良い話ばかりですね!」
 
ゼンジは思わず笑みがこぼれます。何たって仲間、同じくイブキを守る同志たちのことですから。
しかしイブキは、顔をしかめていました。

 なぜなのか。

「イブキさま? …皆の幸せを喜んでくれないのですか?」

イブキはゼンジの疑問符に、睨むような視線を返しました。思わず、体が、強張ります。

「主膳さまが熱を出して寝込んでいる話は聞いている?」

 疑問に問いかけで返され、ゼンジは戸惑い、まごつきながらも「はい」と答えます。この屋敷の主人は、今病に伏しています。この間の試合の時も、見ていたのは副官の方でした。イブキはそう、と頷いてはら、と指から書類を滑らせました。
 
「これが何かわかる?」
「は、はい?」
「今までにあの端女の部屋に入った人間の記録。恐らく全員が噛まれている」
 
ゼンジは紙を覗き込みます。それからイブキの顔を窺います。ゼンジはまだ、難しい文字は読めません。そんな文字がびっしり、そして行儀よく並んでいます。
困って首を傾げました。ゼンジは、察しが悪いのです。イブキの何分の一も。
 
「これは先月分の記録だけど、例えばほら、ゼンジは1回訪れているね」
「はい…あの…方の顔が見たくて。…いけませんでしたか?」
「噛まれた?」
「はいっ! あの…いけませんでしたか」
「噛まれたの。ふうん。そう」
 
 良いとも悪いとも言わないイブキの指が紙の上を滑ります。ゼンジはどぎまぎしながら、読めない文字の上を滑る指を追いかけます。

「カナン、イハジ、ソノマ」

名前がひとつひとつ、読み上げられていきます。多くはゼンジの知る名で、時々知らない名前がありました。
つうと滑った指は、ある一点で止まりました。
 
「そしてこれは、あの副官の名前」
「あ、」
「日にちも記してある。この数日後に、主膳さまは倒れられた」
「え、えええ?」
 
 ゼンジの頭がこんがらがります。更にイブキは書簡を取り出し、広げて見せます。奇妙な色の複雑な判が、紙の端に押してあります。
 
「こ、これは…」
「━━王家からの手紙だよ。例の女を渡せってさ」
「うえっ、ええええええええ!!」
「第二王子からだ。権限はさほどでもないし、捨てちゃえ」
「わーーーーっ!!」
 
ばりびりり、とイブキはいとも簡単に、書を紙くずにしてしまいました。
見たことのない判。もう少し見ていれば形を覚えられたのに。というか王家。王子!
 
「やっぱりあの女はろくでなしだ。幸を与えるだって? 幸福の絶対量が増えるわけがない」
「い、イブキ、あるじさま? よろしいのですか、その━━」
「無駄に山を拓いたからけものたちが飢えたんだ。賊長は元々武人の隊長だった。異性に慕われていたランの結婚で、何人恋に破れることか。今もそうだ! 次々、対価は、やってくる!」
 
 ゼンジは口出しができませんでした。憎悪の目は遠方を見つめ、悪態は次々吐き出されていきます。今、あるじは、ゼンジを見ていない。たまたまそこに人がいるから、愚痴を吐いているだけ。
 
「毒を食って、人に媚びて可愛がられて、天命を弄くり回すことができるなんてね? 下手をしたら国が傾くよ。劇薬だよ━━確っかに、悪趣味だね!」
「……、」
「毎週噛まれながら自信をつけたマジールがここを離れてどれだけやっていけるか楽しみだね? たまたま、幸運にも、手柄を得たのがあの端女のおかげと気付けるかが分かれ目だなあ」
「マジールのあれが、まさか贋もの…」
「勘違いする連中をこれ以上うちの家族に増やしたくないよ。だけど手放すことは絶対にしないからな。無知な連中の手に渡ったらと思うと怖気がする! ああ!」
 
ぷつん。
と、イブキの口火が消えました。
 代わりに瞳と頬に燃え移った炎を、ゼンジは複雑な気持ちで見ていました。ゼンジは、イブキを心配しているのです。
机から動く日がなくても、オレなんかよりずっと苦しんでいるあるじさま!
それは深く複雑な悩みで、浅はかなゼンジにはその底を知ることができません。膝元に呼ばれておきながら、適切な言葉をかけることができないことを、悔しく思いました。

「あの部屋の檻を開けるのは、月に一度にする」

雷が遠くで唸るような声で、イブキは告げました。もしそれがこちらに落ちたら、ゼンジなどひとたまりもありません。それなのに、
 
「ゼンジ?」
「はああっ!」
「もうあの女に会いに行くな。絶対だ」
 
 あるじはそんなことを言い出したのです。
帳簿を丹念に見ているなら、ゼンジが月に一度女に噛まれに行っていることははっきりわかっているでしょう。ぐううっと目に涙を溜めるゼンジにイブキは静かに語りかけます。
 
「化け物の力を借りて得た力が栄光になるものか」
「ち、ちがいます」
「命令が聞けないの? 僕としてはおまえのことを高く買っているんだよ。それが化け物の力でごまかされるなんてゴメンだ」
「違います、違います━━あるじさまは勘違いをなさっています」
 
大きく首を振るゼンジに、イブキはますます顔をしかめました。主人が怒っているのを承知で、ゼンジには伝えるべきことがあります。

「お、お、お、オレには……」

上手く口が回らなくて、平身低頭して、頭が真っ赤になって、恥ずかしくて目の前が潤んで、それでも、そうなっても、伝えるべきことを、やっと、ゼンジは、口に出しました。
 
「行きます、オレはあのひとの所に行きます。ぜったいイヤ、です。行けないのは」
「なぜ」
「だって、武器がうまくなることも、確かに、くらいをもらえることも、オレは、名誉ですが…そうじゃなくて、そんなのいくらあっても、比べたらわかりません」
「なぜそうまで言って断る。もっと欲しい物があるの?欲深い人間なのか、おまえは。言ってみろ! 何が欲しいのか!」
「なんでって、うう━━」


 顔を上げて、涙でボロボロの顔で言うことには。

「……イブキさまを亡くし、イブキさまが苦しむのが、オレの本当の不幸だからです…!」


 イブキはゼンジの目を見て沈黙しました。
ゆらゆらゆらゆら、揺れているのは怖いからです。不幸が訪れるのが怖いからです。イブキはじっとゼンジを見つめました。ゼンジもイブキの顔を見ていました。
やがて、イブキはゼンジに手を伸ばし、

「……。おまえは、本当に忠犬だね」

あるじの手がくしゃくしゃとゼンジの頭を掻き回しています。目を細めて撫でつけています。ゼンジは、嬉しくて、嬉しくって、胸がどきどきして、顔がくしゃくしゃになりました。
 そう、幸せです。




 昔は今よりずっと、多かったそうです。
 あの“女”のような化け物が…。

 イブキはずっと、地方役人に収まっていました。昇進の勧めを、何度も何度も辞退して。妙な物を運び入れたりもしていたそうですが、彼は己の知恵を、平民たちのために使いました。

 彼の側にはいつも、ある男と女がいたと言います。

女は外に出るたび身を隠し、屋敷に入れば整った部屋に身を隠して、深窓の令嬢かと思われます。ちらり姿を見た者が言うには、豪奢な衣を纏った美姫であったと。

男はどこにでもいるようなさえない兵士で、特別強くは見えません。しかし主人の危機にはいの一番に先陣を切り、必ずあるじを守ったそうです。

 あの人は神さまに守られているんだと、誰かが言うとイブキは冷ややかに返します。

「僕自身は絶対に神頼みなんてしないね」

彼はとても優秀で、そんな噂が立つのも当然のことでした。そしてその言葉が本当なのか、どこまでが嘘なのか、それは彼の配下のみが知る事実です。


そして彼が生涯幸せに暮らしたのも、記録に残るほどの事実なのです。



16.07.04 → 2024

#小説 #創作 #山月記

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